2023年02月20日更新

「翠屋」の武関翠篁さんは今日も竹の声に耳を傾けているー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.47

『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は竹工芸の工房「翠屋」へ。(編集部)

若い時分はボクサーでした


谷中銀座の石段の下を左へ折れる道は六阿弥陀道という。そこに面して「翠屋」という工房がある。素通しのガラス越しに花籠(はなかご)、そこに野の花が盛られている。先代の翠月さんが丹精した鉢植えの花である。

——地域雑誌「谷根千」が2号で32ページになって初めて取材したのが、お父さん、武関翠月さんでした。

「もう40年も前のことですね。父も母も相次いで10年前くらいに他界しまして」

という翠篁さんももう白髪の貫禄ある60代だ。この方を私は若者の時から知っている。たしか、ボクサーをしておられたことがありましたよね。

「それは18から23まで、5年くらいですよ。若いときはそのときにしかできないことをしようと思いました。東京都のバンタム級のチャンピオンまではなりました。もちろんアマチュアですよ」

――お父さんはちょっと東北の言葉を話されましたよね。あれが懐かしくて。

「父は宮城県色麻(しかま)の生まれで、祖父のところに弟子入りして養子になったんです。母は茨城の出身でした。うちは祖父の翠心からですので、私が三代目になります。中学の頃から、花籠の中に入れるおとし、という花を生ける竹筒をつくるのに、なたで削ったりするのを手伝わされていたので、もう何年やっているのかな。本格的に始めたのは20歳を過ぎてからです」

――お箸、へら、耳かき、小さなものから、花籠まで、竹製のものはたくさんありますね。

「昔から、竹の文化は日本人の身近にありましたから。柔らかでしなやかで、扱いやすいんです。大工さんはたくさんの道具をもっているかもしれませんが、私たちは竹を割るなた、削る小刀とふたつしか道具はありません」

――これはずいぶん年季の入ったなたですね。

「これは祖父が、上野の車坂で、関東大震災で道具がすべて焼けてしまって、その後にこしらえた物ですね。なたは、三代、四代ともちます。長い竹を縦に割って使うんです。竹は水をつけて少ししなやかさを出します」



――前にお父さまから、古い民家が壊されると聞くと、囲炉裏の上でいぶされた煤竹(すすだけ)を見に行くと聞きました。

「煤竹の特徴でもあるんですが、縄目といって、囲炉裏の上で縛っている縄を解くと、それがいい模様になっているんです。父の代は各地で古い茅葺きの民家が壊された時代でした。今ではもう民家は残っていないし、都会に移築してリユースする時代。祖父や父が集めてくれたのを大事に使っています」

――そりゃ、備蓄、美竹ですね。

「それから真竹(まだけ)は日本に古来から生えている竹で、冬の寒さにも強く、繊維に密度があって、粘りがあるんですね。最初は緑色ですが、それが白くなってだんだん黄色くなって、深いいい色になります。本当は竹の種類は300~500もあるそうですが、それは娘の方が詳しい。私が使うのは5、6種類くらいです」

――あら、娘さん、竹に興味があるんですか。

「うちのは大学を出て書道をするのかと思ったら、なんだか今年から、別府にある竹工芸の学校に行ってますよ」

――そうしたら、四代目ですね。女の方でもできる仕事ですか?

「継いだらね(笑)。いろいろやりたいことがあるみたくて。どの世界でもそうだと思いますが、今は実力のある女性作家がいますから。とくに漆は女性の方も多いようです。いい時代になったと思います。いろんな人たちが集まれば、今までなかったような作品も出てきますから。

学校のカリキュラムを見ると、私が40年前に教わったのと同じものがかなりあるんです。まず技術が大切なんですね。伝統的に続いている技術を次につないでいくこと。それを活用して時代にあうように、その時代を生きている人がつくればいいんですから」

作品にすることで竹の生命がよみがえる


ということで、実際の手作業を見せてもらった。



「まず、なたで竹を縦に割ります。いつも2分の1にカットしていきます。どんどん細くなります。節のところでいったん様子を見ながら、慎重にそうっとやります。さらにその竹の内側を小刀で削って薄くして使いやすくします。

これを水につけると、しなやかになるので、扱いやすくなります。

それから編むほうもお見せしますね。今手がけている花籠を編んでいきます」



――ほおお、すばらしいですね。すごくモダンで。

「27歳の時に日本伝統工芸展に出品し、初入選しました。それからも毎年、出品しています。個展も4年に一度、日本橋三越でさせてもらっています」

取材に同行していた木村さんが、あれすばらしい、欲しいな、と言い出す。
たいへん伺いにくいですが、おいくらなんでしょう。

「伝統工芸展に出品した作品ですので……。銘は『曙光』といって、これは編み技法ではなく、組み技法という技を使っています。

父から言われていたのは、『竹の声に耳を傾けろよ』ということ。竹と自分が一体となったとき、いい作品ができるのかなと思います。僕がやりたいのは、いろんな技術を学んで、いろんな表現方法で、竹が喜ぶような何かができないか、ということなんです。切ってきた竹を作品にすることで、竹の生命がまた蘇るような」

各国の大使館などからも注文があるそうだ。私は下の子が生まれたときの内祝いで使わせていただいたのですが。

「父の代ではそういう物もたくさん作っておりました。ここには祖父の作品、父の作品も並べています。それぞれ得意技が違います。この祖父のなんか、どうやってつくったのかわからないほど、局面が複雑です。まねしようと思ってもできない。

父はこの丸竹を口にして広げた作品が得意でした。下の部分を縦割りしてるんでしょうね。横に別の竹を合わせて編んでいきます。

父の代で、谷根千に人が多く来るようになったので、谷中銀座の石段の下にお店を出し、そちらは妻ががんばってくれています。そこではこうした工芸品だけでなく、お箸から、耳かきからスプーンから、割とお求めやすい価格の物をそろえています。全国に竹の職人さんがおり、箸を専門に、あるいはスプーン、笊(ざる)を専門に作っている方たちがいらっしゃる。竹製品を使ってみて、その使いやすさ、美しさに触れてほしいのです」

一人娘さんの話になると「なんかねえ、研究熱心でね」と顔がほころんだ。

取材・文:森まゆみ

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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/


仕事旅行ニュウス: 2023年02月20日更新

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