2022年06月03日更新

藝大の先生方もお坊さまもスッキリ。「シンプルヘア」は明治から続く理容店ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.41

『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は明治時代から続く理容店「シンプルヘア」へ。(編集部)

床屋さんは町の社交場


上野桜木町方面にはうとい。三崎坂上から上野公園に抜ける道沿いに「シンプルヘア」というお店があることに、気がつかないできた。「バーバー」というたたずまいなので、女の私には関係ないという感じだったのかもしれない。

ところが「上野公園の樹を守る会」のメーリングリストに、シンプルヘアの永松康雄さんという方が頻繁に上野公園内のすばらしい写真を投稿しておられる。そして、上野の森の大木伐採について、東京新聞に記事を書いた際、メールのやりとりで永松さんのお写真を借りたこともあって、長らくお会いしたいと思っていた。

シンプルヘアはカヤバ珈琲の隣で、明治から続くという。行ってみるとたしかに見覚えのある店構えである。康雄さんは穏やかで優しそうな方だった。

本当は私が切ってもらいたかったのだが、ちょうど髪を切ったばかりだった。同行の河尻さん(「仕事旅行」編集長)の髪を希望通りソフトモヒカンにしてもらった。

「刈り上げがいのある髪ですね。腰があって。モヒカンというのは、アメリカインディアンの部族の名前ですね。バリカンというのも、これを発明したフランス人の名前からきているんですよ」と康雄さん。へえええ……

バリカンで刈り上げた部分にポンポンとシッカロールのような粉をはたいた。「刈り上げた面のでこぼこを見やすくするために用います。うちは小麦粉を使っています。シッカロールは鉱物系なので」



丁寧に櫛ですきながら、はさみで毛の長さを調整していく。見事なソフトモヒカンのできあがり。黒いジャケットの河尻さんはまるでアーティストに見える。はあ、髪型で違って見えるものだ。そのあと、ひげそりやシャンプーも実に気持ちよさそう、ちょっとうらやましくなった。

同じく理容師の奥さんと、お弟子さん、息子さん、4人で紺と白の縦縞のシャツを着て働いている。

「女性のカットも得意ですから。ぜひ、森さんもいつか来てください」
ということで、カットのあとも引き続き話を聞く。

――永松さんのところも歴史が長いそうですね。

「私で三代目、息子の森雄で四代目になります。初代の祖父・勝太郎は文久3(1863)年の生まれなんです」

――文久3年というと、森鷗外が今年で生誕160年ですが、その1年後ですね。

「勝太郎は新潟の出身です。糸魚川のほう。上京して、神田でお店を持った。創業は明治14年、1881年です。それから桜木のこの道の反対側を少し入ったところに越して、その後現在地に移ってきました。なんで東京に来たのかはよくわからないんですが」

——式亭三馬の代表作に『浮世床』がありますが、床屋さんには人が集まり、情報も集まったといいますね。「浮世風呂」すなわち銭湯とともにね。

「ええ。昔から理容は、まちの社交場でもあって、風俗というか文化を表していますよね。江戸時代には男性は武士も町人も月代(さかやき)を剃って髪を結い上げていたのが、明治に断髪令が出て、髪結いから、髪を切る、西洋床屋というものができたわけです。勝太郎は西洋理髪の先駆けでした。昔から床屋、散髪屋、理髪店ともいいますが、正式には理容店といいます。私たちは理容師」

——女性のほうは、日本髪を結うのに、髪結いさんが来てくれたんですよね。昔は髪結いさんを「かみいさん」なんて言ってましたね。

「祖母のナカは髪結いでした。祖母の頃は、岡持ちみたいな道具箱を持って髪結いさんが出張していたそうです。祖母は信心深くて、髪結いのお師匠さんのお墓や親戚のお墓など、子供の頃に一緒に連れていかれたのを覚えています」

――やがて洋髪が流行るようになって、昭和30年代に母たちが通っていたのは「パーマ屋さん」でした。それから美容院になって、今ではヘアサロンとか、カットハウスとか。

「ええ。理容師に対して美容院は美容師ですね。数年前にカリスマ美容師が話題になりましたが、男性も美容院に行く方が増えました。今は美容師のほうが10対1くらいで多いです。理容師と美容師では専門学校も違いますが、そのうち統合されてしまうかもしれません」



理容と美容の違いとは?


――理容と美容では、どこが違うんですか。

「法的に言うと、理容とは『頭髪の刈込、顔そり等の方法により、容姿を整えることをいう』となっています。一方、美容は『パーマネントウェーブ、結髪、化粧等の方法により、容姿を美しくすること』となっているんですね。

細かく言えば、カミソリが扱えるかどうか。美容師ははさみは使いますが、カミソリは基本、使わないことになっています。習うのも、理容のほうはショートカットから、美容はロングカットから入りますね。

たとえば、刈り上げできれいにそろえて、我々は色彩とかぼかしとか言いますけど、短い毛から少しずつ密で細かい段差をつけてグラデーションにしていくのはやはり技術がいります。美容の方にはなかなか難しい。短い髪は0・1ミリの世界ですから。

時代によって髪型の流行も変わります。昔はお客さまの顔に合うように考えればよかったんですが、今の方はまずデザインありきで、ヘアスタイルをスマホで見せて、こんなふうにしてくださいとおっしゃいますね。似合わないと思うんだけどなあ、なんて思いながらもやっていくうちに似合ってくることもあります。

女性もパーマをかける方は減り、今はカットやカラーが多くなりましたね。カラーリングもいいんですが、金髪やシルバーなどは、何度もブリーチしないといけないので、やっぱり髪を傷めると思います」

――なるほど。それで、話が戻りますが、二代目の春男さんは?

「初代の勝太郎が61歳で亡くなり、一人娘のイキに養子を迎えたのが、同じく新潟出身の父の春男です。明治41(1908)年生まれ。うちに下宿しながら岩倉の鉄道学校に通っていたんですが、勝太郎が亡くなる前後に理容の道に入ったようです」


永松康雄さん提供

――では、春男さんは、勝太郎さんのもとで修業されたわけではなく?

「よくわからないんですが、仕事をした時期が重なってはいないようです。結婚して昭和12年に私の姉が生まれるんですが、そのあと戦争になり、海南島に派遣されました。理髪師ですので衛生兵をしていたようです。

父が戦地へ行くと、母はその間に免許をとって仕事をしていました。父も母も美容師免許も持っていて、奥でパーマの仕事もしていましたね。

父が復員して、私が昭和23年に生まれました。父はもう40近くでしたね。真面目で社交的なところもあって、酒は弱いながらも陽気な酒でした。昭和44年に61歳で亡くなりまして。私がまだ21歳の時でした。

私は大阪に修業に行く予定だったんですが、父にほとんど教わる暇もなく、半人前のうちに継ぐことになりましてね。先輩の職人から習ったり、講習会に参加したりして学びました」

――なるほどよくわかりました。康雄さん、小学校は?

「台東区立忍岡小学校です。もう谷中小もありましたが、この辺は忍岡に行く人が多かったんですね。三段坂を下りて、不忍通りを渡って。中学は上野中学です。子供の頃から谷中墓地と上野公園が遊び場だったんですよ。我ながら東京の中では自然にあふれたいいところに生まれ育ったなあと。

上野公園は自分の庭のように思っています。小さいときから昆虫採集が好きで、自分で網もつくって蝉を捕まえました。蝉を捕るのは小さい網のほうがいいんです。手ぬぐいの網で、針金を竿にさしてね。僕の子供の頃はミンミンゼミは貴重でしたが、最近はすごく多くなりました。クマゼミは静岡までしかいなかったけど、今は温暖化なのかな、結構いますね。トンボはオニヤンマやオニグルマ、ギンヤンマを追っかけました。今でも昆虫採集は好きで、4人の子供ともよく行きましたし、今は孫とも一緒に行っています。

それから、不忍池で四つ手網で魚釣りなんかもしましたね。あそこは警備の人がいるので、誰かを見張りに立てて、来たらそれっと逃げるんです」

――それは夢のような少年時代でしたね。この辺は買い物には不便ではないですか。

「昔はこの辺で生活できたんですけどね。八百屋さんは2軒あったし、魚屋さんも魚安さんと魚金さんと2軒あり、みんなが玉子屋さんと呼んでいた肉屋さんもありました。そこのコロッケがおいしくて、今でも残念がってる方がいます。

子供の頃の食べ物で思い出すのは、鮭の皮ですね。昔の鮭はしょっぱかったでしょう。その鮭の皮をご飯にのせて、海苔巻のようにして食べるのが好きでした。それから母親が漬けた大根の古漬けとしょうがを入れた漬物がおいしかったですね。白菜の塩漬け、あれも先っぽの葉っぱでご飯をくるむとおいしかった。

年の暮れには近所でお餅をペッタンペッタンつきましたし、コンニャクを醤油で煎り煮したり、里芋を煮たりして、近所で交換して」


永松康雄さん提供

――四季折々の行事なんかもあったのではありませんか。

「寛永寺の大黒天護国院で節分の豆まきがありました。あの頃は雪が多くて、傘をおちょこにして、豆を受けたものです。そり滑りなんかもしましたよ。それから日蓮宗のお坊さまたちの寒行、除夜の鐘もあちこちから聞こえますし」


永松康雄さん提供

理容のはさみは世界に誇れるもの


――このお家の建物はいつ頃、建て替えられたのですか。

「今から27年前、1995年に建て直しました。以前は二軒長屋で、80年か100年かそこらは経っていました。

この辺は、関東大震災にも空襲にもあってないので、古い建物が多いですよね。関東大震災のときは、家の畳が波立ったと母から聞きました。谷中は無事だったので、祖母のナカが罹災者への炊き出しをしたと。

二軒長屋のうちもう一軒は藤崎さんという雑貨屋さんで、何でも売っているので、谷中デパートなんて言われていました。藤崎さんが引っ越されてから、うちが二軒分使っています。

この御神輿の写真は、諏方神社のお祭りのときですね。谷中、桜木14町会で一番大きいんです。うちの町会は谷中町で70軒くらいしかなくて、町会は小さいんだけど、お神輿は大きくて(笑)」


永松康雄さん提供

――谷中町の山車人形は中国の武将の関羽なんですよね。

「関羽人形の作者が妙雲寺の檀家さんで、そのご縁だそうで。現在は早稲田大学に保存されているそうです」

――この周りのことを教えて下さいますか。

「ご近所の町内にお寺が5つあります。大雄寺(だいおうじ)には高橋泥舟のお墓がありますね。それから妙雲寺、多宝院、総持院、大行寺ですね。

うちの先の嵯峨の家さんが町会長、あそこの家は皆さん頭がよくてね。清志さんは私の一つ上で、その弟の正志さんは一つ下なんですけど、よく私が「たーちゃん、これ教えて」と勉強を教わったものです。

岡埜栄泉さんも古いでしょう。あそこの先々代は銃剣術の達人で、父と同郷、同い年で親しくしていただきました。角が榧場(カヤバ)さんで、旦那さんが写真が好きで、暗室ももっておられたので私はそこで写真の手ほどきを受けました。言問通りには和菓子の喜久月さんがいて、先代の青山さんはうちで毎週調髪しておられました。

カヤバの前っかわ、佐野さんは酒屋さんで、角は碁会所になっていました。通りを挟んで、いねやという蕎麦屋、その隣が島田さんという雑貨屋と古いアパートがありました」

――木造2階建ての浜野病院が、中銀マンション(中銀上野パークマンシオン)になったのはいつごろでしょう。あれはこの辺のマンションの走りでしたね。

「この辺りで初めての高層マンションで、11階建て。当時としては高いなあと思いました。今は11階建ては建てられないそうですが、当時は規制が緩かったようです。

不公平だと思うのは、中銀マンションなどが並ぶ言問通りの南側は規制が緩和されていて、どんどん高い建物が建つのに、うちのある北側は建てられないんです。環状3号線(言問通り)のこちら側(北)を拡幅する計画もあります。

環状3号線は全体の3分の2程度できていて、この辺だけできていません。文京区の播磨坂のところはできていますね。そこから本郷、根津神社、根津教会、谷中の寺町を抜けていくという計画です。あれが実現すると、うちはなくなってしまいます。道幅が30メートルになるわけですから。父が『俺の目の黒いうちにはできない』と言っていましたが、そっくりそのまま息子に言うことになります」



--ルネ上野桜木のときも、かなりな巨大開発なので、近隣は反対しましたね。

「そうですね。でも今はいっている方たちは町会によく協力されていますし、うちにも大勢おみえになります」

--このあたりは、お寺からのお客さまも多いですか?

「谷中は寺町ですので、お坊さまも多いですね。剃髪される方も、宗派によってはスポーツ刈りにされる方も。谷中に日蓮宗の学寮があって、荒行の前に、40人を3日間かけて剃髪したこともありましたよ。

ほかには、彫刻家の平櫛田中先生も見えていたそうです。今も藝大の先生方も見えます。このところ写真家の大西みつぐさんが見えてました。大西さんとは、地域の写真展でご一緒して以来のご縁です」

--奥さまはどこから来られました?

「妻の文子は熊谷です。同じ理容学校の友人の紹介で、初めてデートしたのは上野動物園でした。彼女も住み込みで仕込まれて腕を磨きましたから、いい仕事をしますよ。年配のお客さまからのご指名も多いです」

--ところで、理容師の仕事に向いているのは、どういう方だと思いますか。

「どうでしょう……人間相手ですからね、ある程度、コミュニケーションがとれる人ですよね。私、よく思うんですが、生きがいというか、この仕事の楽しみというのは、お客さまの髪を切ったり、顔を剃ったりして、気持ちよく帰っていただくことなんですけど、お客さまの要望を伺って、頭のかたちや毛質などを見ながら、あ、このお客さまはこういうふうにしたいんだなという、そういう考えるプロセスが楽しいですね。だいたいお顔のかたちを見れば、経験でわかりますから。

一方で、短時間の1000円カットの店も増えました。たしかに名人のカットは早いです。でも早い人が上手なわけではないですから。日本の理容は明治に始まって、技術にしても、刃物にしても、ものすごく研究されている。理容のはさみというのは、世界に誇れるものです。そういう連綿と続いた技術の継承が断ち切られてしまうのは残念ですよね」

--今も毎朝、上野公園に?

「ええ、朝早く写真を撮りに行きますね。それで家に帰るとご飯が炊きたてで、熱い味噌汁があって、ああ、幸せだなと思いますね。作ってくれる家内には申し訳ないけど。床屋のカミサンって仕事も家事も本当に大変ですから。なかなか口に出しては言えませんが、本当に感謝しています」

文:森まゆみ


永松康雄さん提供


当連載のアーカイブ

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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.3ー甘味処「芋甚」は根津にはなくてはならない、お守りみたいな店である
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.4ー若い二人が引き継いだ「BAR 天井桟敷の人々」には悲喜こもごもの物語がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.5ー中華料理「BIKA(美華)」のご主人がポツリと話す根津宮永町の昔話
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.6ー鉄道員から役者、そして寿司屋へ。すし乃池の大将の人生には花と町がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.7ー5代続く骨董店「大久保美術」の心やさしい、ゆとりのある家族経営
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.8ー三崎坂のとば口にある朝日湯は谷根千に残る貴重な銭湯ー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.9ー谷中銀座の貝屋さん「丸初福島商店」は素通りできないご近所の店
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.10ー創業元治元年。江戸千代紙の「いせ辰」を訪ねると暗い気分も明るくなる
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.11ー谷中のちいさな宿「澤の屋」に年間5000人以上の外国人が泊まる理由
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.12ーいい酒と人柄のよい店主。根津「サワノ酒店」はとびきり好きなお店だ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.13ーあられ・せんべい「嵯峨の家」のいつもニコニコお兄さんー
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.18ー日本画の大家たちも訪れた画材店「金開堂」。岩絵具の奥ゆかしさに惹かれてー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.19ー大島屋はブームに関係なく淡々とお店を続ける町の蕎麦屋さんだ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.20ー牧野兄弟商会オーナー・文蘭さんの「泣いてる場合じゃない」半生
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.21ー生きていくうえで必要そうな雑貨を広く浅く揃える。「あんぱちや」は根津の太陽だ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.22ー焼き鳥屋「鳥清」の味は三代の店主とお客さんに受け継がれている
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.23ー「やりたくない仕事はやれない人」になってしまった富永喜三さんが味噌商を継いだ理由
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.25ー戸田文具店の正子さんは、旦那さんと猫たちと本当によく働いた
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.33ーひとつのものを、責任をもって、じっくり。甲州堂印舗のはんこは名前が"映え"る
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/
連載もの: 2022年06月03日更新

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