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2022年05月11日更新
日本最古の在野美術団体「太平洋美術会」には本当に絵が好きな人たちが集まるー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.40
『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は100年以上続く在野の美術団体「太平洋美術会」へ。(編集部)
ピンク色のかわいい美術会ビル
日暮里の諏方神社に面して、太平洋美術会研究所がある。ピンク色のかわいい木造の建物だ。中に入ると、こぎれいなロビーの向こうは、木の床にイーゼルというか、デッサン台が並べられ、モデルさんの立つ台もある。地下には彫塑のアトリエ、なんとなく古めかしく懐かしい。
本当に40年近く前に訪ねて以来。事務局職員の松本昌和さんに聞く。
「太平洋美術会は、明治22年に誕生した『明治美術会』を母体としています。小山正太郎、浅井忠、松岡壽、長沼守敬らが在野の美術団体として起こしました」
——ちょうど、東京美術学校が開校した年ですね。そのころは岡倉天心をはじめとして国粋主義の時代で、東京美術学校は創立当初、洋画科がなかったんですよね。
「そうです。最初は日本画科と木版科のみで、明治29年に西洋画科が新設されました。その年、黒田清輝を中心に、美術団体「白馬会」が結成されます。
明治35年、明治美術会は「太平洋画会」と名称を変え、このときに第一回太平洋画会展覧会を開きました。当時の会員には、吉田博、中川八郎、満谷國四郎、石川寅治、鹿子木孟郎、都鳥英喜、丸山晩霞、大下藤次郎、永池秀太らがいました。明治37年に谷中の清水町に教場を持ちます。
よく、太平・洋画会と間違われるのですが、これは当時、アメリカ経由で帰ってきた画家が多かったことから。太平洋・画会です。洋々たる太平洋を渡るという雄大な名前のようです。
在野の美術団体としては最も古く、赤坂にあった黒田清輝の白馬会研究所と勢力を二分していました。黒田は東京美術学校に教授として迎えられますが、一方の太平洋はずっと在野を通しました。
以前、丸山晩霞記念館から送られてきた資料の中に、太平洋と白馬会の会員たちがヨーロッパに官費で留学したか、私費で留学したかというのを調べた資料があるですが(笑)、太平洋はほぼ自費で行っています」
――それは面白いですね。
「最初、吉田博と中川八郎がふたりで渡米しました。最初デトロイトの、もともと伝手のある人に会いに行ったら会えず、美術館をうろうろしていたら、そこで声をかけられて。描いてきた絵を見せたら、そのまま展示・即売会をやらせてもらえたらしいです。そのお金で、そのままヨーロッパに行くんです。
昨年(2021年)、吉田博が没後70年ですばらしい版画展が催されて話題になりましたが、黒田清輝の展示も同時期に、上野の隣どうしの美術館で開催されて。それこそ、夜な夜な喧嘩してないかな、なんて思ってたんですけど(笑)」
大正時代。谷根千で切磋琢磨した青年芸術家たち
――太平洋を創立した人たちは、小山正太郎が開いた団子坂の画塾・不同舎の門下が多いですね。
「はい。不同舎は、団子坂上の世尊院の境内にありました。青木繁、坂本繁二郎、荻原碌山、鹿子木孟郎、柚木久太、石井柏亭、石井鶴三などがそこで学んでいます」
――石井柏亭は、その近くの千駄木の太田の原の絵などを描いています。みんな根津神社とか上野公園などでデッサンしたのですね。
「貧乏で遠くまで行けなかったのかもしれません。谷中清水町は手狭になって、明治38年、谷中真島町一番地、いま住宅になっていますが、そこに移ります。キッテ通りといわれるようになった、あの崖の下です。明治の末には、中村彝や中原悌二郎が通っていました」
——彼らはわざわざ、白馬会から太平洋に移ってきたわけでしょう。また官立の美術学校に入ったのに、それをやめて太平洋に来る人もいたと聞きます。そういう意味で、美校受験の予備校ではなく、官展や権威主義がきらいな反骨の人が多かったのかもしれませんね。
「僕も中村彝は大好きです。彼らがいた時代の谷中はなんといっても魅力的ですね。町の人が絵描きを大事にして生活の面倒まで見ていた。中原悌二郎のブロンズが愛玉子にあるかと思えば、診察料の代わりに中村彝の絵をもらったお医者さんもある。同じ頃の仲間として、彫塑家の堀進二、保田龍門、画家の鶴田吾郎などがいます。明治から大正にかけて太平洋で学んだ美術家は2000名を超えます」
——この大正時代の青年芸術家たちの切磋琢磨を、雑誌「谷根千」17号でも「谷根千に生きた 夭折の画家たち」というタイトルで特集しました。中村彝が先に肺結核になりますが、親友の中原悌二郎が先に亡くなっています。
「中原は『若きカフカス人』などの作品があり、現在も中原悌二郎賞という彫刻の賞があるくらいのすばらしい彫刻家です。狭い下宿でアルバイトに絵も描いたりしていましたが、32歳の若さで亡くなりました。仲間の戸張孤雁も谷中の七面坂下あたりに住んでいましたが、同じく肺結核で亡くなっています。中村彝も新宿のアトリエに移った後、やはり30代で亡くなっています。
鶴田吾郎は中村彝と並んで「エロシェンコ氏の像」を描いた人ですね。後に「神兵パレンバンに降下す」などの戦争画も描きますが。保田龍門は谷中の高台の寺の境内に下宿して、19歳で日本に学びに来た周恩来、後の首相と仲良くなっています。鶴田や堀進二さんは長生きされて、太平洋で教えておられた」
——そういえば、後に高村光太郎夫人となる長沼智恵子も、日本女子大を出たあとに、太平洋に学んでいましたね。
「二十年ほど前、彼女が太平洋で学んでいた当時のデッサンが出てきましたが、たいへんに技量のあるものです。本当に打ち込んで描いていたことがしのばれます。光太郎と結婚したあともまた通ってきている。光太郎はこの裏の第一日暮里小学校の卒業生ですから、ここで二人がつながります」
——渡辺与平と文という二人の画家もここで出会って結婚していますね。与平は妻の姿を「ネルの着物」に描いています。残念にも早く亡くなってしまいましたが、妻の亀高文子は絵描きを続け、雑誌「新少女」などに挿絵を描きました。
「昭和4年に、太平洋美術学校と新たに名前を変え、中村不折が初代校長になります。今度は松本竣介、寺田政明、麻生三郎、吉井忠、井上長三郎、鶴岡政男、難波田龍起、靉光らが入ってきます。
靉光とかはそれこそ長生きしたら、ピカソ的な、日本で一番有名な絵描きになってたはずですけどね。本当に器用だし。やっぱり長生きするのは大事です」
うまくなくても売れる人は売れるし、うまくても売れない人は売れない
——まったく錚々たる画家たちですね。その時代のことは「谷根千」44号でも「芸術家のいた喫茶店『リリオム』の時代」という特集にしています。そのころですか? 月謝を払わないといって問題になり、みんなでこぞってやめたというのは。
「昭和4年の話ですね。もともと太平洋の月謝はうんと安く、今も安いんですが、それでも貧乏で払えない人もいて。それを割と厳しく取り立てる事務員がいたらしいんです。それに反発してやめた。それこそ、ごはんも食べられないような画学生がデッサン用のパンをあてにして来てるのに、パンにノミ取り粉がかけられてたとか。そりゃあ、怒りますよね。
僕がここに入ったのは23の時ですが、実はうちの祖父と祖母もここで学んで一緒になったんです。祖父は松本司農夫(しのぶ)といい、北九州の出身。祖母は野口光枝といって、神田にあった文光堂という出版社の社長、野口安治の娘です」
——へえ、「秀才文壇」などの雑誌を出していた? 谷中に住んだ新内の岡本文弥さんも大正の頃は文光堂の編集者で「おとぎの世界」という大正自由主義教育の影響のある絵本雑誌の編集長をしていました。
「へえ、そうですか。祖父母たちもパリに行きたかったのですがかなわず、いったん北九州に帰るのですが、戦後、東京に戻ってきたんです。
最近、昭和5年の夏期講習会の集合写真を、ここで教えておられた池田永治先生のご遺族から寄贈していただいたのですが、ここには鶴田吾郎先生と、生徒の松本竣介、寺田政明、新田實なども写っています。祖父も祖母も一緒に写っているんです。昭和5年8月ですね」
——みんな個性的な格好をして。女性も着物を着ている人もいれば洋装もいるし、男の人も長髪やいろんなひとがいます。
「そう、寺田政明はハンサムだと聞いていましたが本当に二枚目ですね。この頃の夏期講習会の広告がありますが、講師は石井柏亭、石川寅治、堀進二、中村不折、阿以田治修、柚木久太。9回目(昭和8年)には鶴田吾郎や吉田博が講師となっています」
——それにしても、昭和5年といえば「大学は出たけれど」の時代で就職口もなかった頃で、美術家はもともとこれでは食えないと覚悟してはいたとは思いますが、生活はたいへんだったと思います。
「うまくなくても売れる人は売れるし、うまくても売れない人は売れないし。その時代に合うかということや、自己プロデュース力などもすごくあると思いますね」
――写真の、前のほうにいるのは先生方でしょうか。
「昭和13年、17年の卒業式の写真もあります。ここには石井柏亭さんとか、中村不折校長の姿が見えます」
――石井柏亭は日暮里渡辺町に、中村不折は根岸にいて近いですね。昭和17年といえば、太平洋戦争も始まっており、このなかから戦争に招集された方も多いのではないでしょうか。松本竣介の仲間も何人も戦死しています。また美術家たちも戦争に総動員され、戦争画を多く描きました。
「太平洋も一時は軍需工場になり、美術どころではありませんでした。そして昭和20年3月の空襲で真島町もほとんど焼けてしまい、太平洋にあった作品も焼けました。それでも、展覧会は毎年休まずにやっていたようです。
戦後の昭和32年、諏訪台のここ、当時は荒川区日暮里町9丁目1080に移りました。現在は西日暮里3丁目です。土地を貸してくださったのは東京製鋲の清水道男さんです。最初の頃はただ同然の地代で貸してくださった。
戦後に復興するとき、関係者が1000円ぐらい寄付をしてくださったのですが、なんと朝倉文夫先生が1万円くださっています。昭和32年からは太平洋美術会と名前を変えました。校長は堀進二先生で、代表は布施信太郎さんです」
――松本さんのお父さまも絵を描かれていたのですか。
「いえ、父は電気部品の工場をやっていました。僕は祖母から『絵描きになれ』といわれてそのまま。ずっと日暮里あたりに住んでいます。
会員で、堀潔さんという、たいへん几帳面で字がきれいな事務の方が、太平洋美術会に関するたくさんの資料を残してくださり、助かります。名簿を見ると、当時の日本の植民地だった朝鮮半島、また中国東北部からの留学生も多いんです。その人たちがここで何を学んだか、その後どのような人生を歩んだか……」
現在の生徒数のべ300人。若い人も増えてきた
--今東光や今日出海さん兄弟も太平洋で学んだと、40年近く前、当時の椿悦至校長先生に教わりました。意外な人が来ているんですね。
あら、これは新田實の娘の基子さん、こちらは鶴岡政男の娘の美奈子さんの願書ですね。フレスコ画の有元利夫さんも。
通りすがりの佐田昌治理事が、解説してくれた。
「彼は谷中の文房具屋さんのご子息ですが、ここで学んで五浪して東京芸術大学に入った。あのころの芸大の油絵は48倍の競争率で、8浪、9浪なんてのもざらでした。頭が切れる人で、根性もありましたね。それで女子美の助手をしているときに安井賞を取ったんじゃなかったかな」
——今はどのくらいの生徒さんがいますか。
「延べ、300人くらいですね。すいどーばた美術学院みたいに美大の受験が目的の人より、趣味で絵を描き続けたいという方が多いです。昔ここで勉強していらした方がふたたび来られることもありますし、最近は若い方も少し増えてきました。墨絵を描く子もいます。中村不折が好きで、美術館の帰りに来てくれたり。
研究所は絵画、彫刻、版画、クロッキーと四つの部門があって、入会金を納めれば、あとは一回500円~1500円のチケットで参加できます。
モデルさんをスケッチするときは2500円のチケットです。基本的にはヌードですが着衣のときもあります」
――クロッキーとデッサンとは、どう違うんですか?
「クロッキーは僕が担当しているのですが、割と短い時間で次々にポーズを変えて描いていきます。デッサンは対象をそのまま、時間をかけて写しとるという感じです。デッサンでは輪郭線はあまり使わず明暗で、一方のクロッキーは身体の流れを輪郭線で描いていくような感じですね」
――モデルさんは、若い女性が多いんですか?
「いや、そんなこともないです。やっぱりベテランの方はポーズもうまい。逆に若い方は主張の強いポーズをされたりする方もいて、クロッキーだと時間が短いからいいんですけど、彫塑ではちょっと嫌がられたりすることもあります」
——でも、ヌードのモデルさんも、みんなに見つめられて疲れるでしょうね。
「2時間でも20分ずつで間に休憩が入ります。これは昔からの習慣のようですよ。彫塑もモデルさんに来てもらって、それをデッサンして、立体に仕上げていきます。最近、彫塑はなぜか人気がありますね。年に一度、六本木の国立新美術館で太平洋展をやります。福岡や名古屋にも巡回します」
ふたたび、佐田昌治理事が通りがかる。
「太平洋では名前を出さず公平に審査をしています。前は挙手で決めていたのですが、どうしても誰のお弟子さんかということとかが判断に入ってきがちなので、最近はボタンを押して点数を決めています。
それでもコロナで、去年、一昨年とまともに開催できなかった。今年も一応5月にできるかどうか、まだちょっとわかりませんよね。100年の歴史で、戦争中も中止にならずに開催されていたんですけどね」と嘆かれていた。
100年以上続く、在野の美術団体。名誉やお金のためでなく、本当に絵が好きな人たちが集まる快い空間。私も電動自転車を買ったことだし、一山越え、ここで絵の勉強をしたい。
取材・文:森まゆみ
(関連情報)
「第117回太平洋展(油彩・水彩・版画・彫刻・染織)」が開催されます。
会場:国立新美術館(東京都港区六本木7-22-2)
会期:2022年5月18日(水)~ 30日(月)※5月24日(火)は休館。
詳しくはこちら→
太平洋美術会公式サイト
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。
谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→
http://www.yanesen.net/
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