2022年03月23日更新

浅尾拂雲堂はいまも昔も、絵描きたちに親しまれる額縁づくりのお店(後編)ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.37

『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回はいまも昔も、多くの画家、文化人らに親しまれる額縁づくりと絵画修復のお店「浅尾拂雲堂」へ。後編です(編集部)

※前編はコチラ→浅尾拂雲堂はいまも昔も、絵描きたちに親しまれる額縁づくりのお店(前編)


額縁は絵にとっての洋服みたいなもの


――額縁作りは、お父さまから?

「いや、額の作り方なんて一切教えないですよ。見りゃわかるだろうと。それでやりながら考えて。

うちでは画家が作ってくれというのをそのまま作りはしないんです。絵を見せてもらって、それに合わせて作るんです。作ってくれと言われたものをそのまま作ると、こんなもの頼んでない、ってなってしまうんですよ(笑)

たとえば、人に洋服を着せるときも合う、合わないってあるでしょ。その人に合う服を着せて、いいね、スタイルよく見えるねって。本人よりよくわかる。額縁もそれと同じこと。見栄えがよくなるんです。

絵っていうのはね、もちろん絵描きは100%と思っている。でも、僕は70%くらいじゃないの、と思っているわけ。だから、絵に合う洋服を着せて100%、120%に引き出して、ああ、いい絵だねって思わせなきゃ。その人がいま持っているものをいかにきれいに見せるかが大事だと、僕はずっと思っています。

この間も、絵を習っていて額縁を頼みにきた奥さんが額縁に入った自分の絵を見てね、『これ、わたしの絵ですか?』って言うから、『そうだよ』と答えたら、『わたし、こんなにうまいかしら?』なんて言うんだ」

――面白いですね。額縁も最近は、昔のようなロココ調というのか、金ぴかの装飾的な派手なのは少ないですね。額縁もシンプルなものに変わってきているんでしょうか。

「要するに、建物がシンプルになっているから。だって、西洋風のオークとかでできた豪華な室内なら似合うが、いまのコンクリートとガラスのすっきりしたオフィスビルに、あの額は合わないでしょう。いまの現代美術は壁紙みたいなものだよね。ビルに合う絵です」


浅尾空人さん

--美術学校や絵描きさんのことで何か面白い話はありますか。

「谷中のあたりに画家は少なくなりましたね。このあたりで思い出すのは大河内信敬(のぶひろ)さん。高崎の殿様でうちの旧藩主に当たる。すごく品のいい人。暇があると遊びに来て、出入りする画家たちと話してました。そのお嬢さんが女優になった河内桃子さんと、そのお姉さんの紅子さん、世が世ならお姫さまですね。

――料理研究家の阿部なをさんも、このあたりに住んでらっしゃいましたね。太宰治と仲のよかった絵描きの阿部合成の夫人の。離婚されたようですが。

「同じ青森の出身なので、阿部なをさんは棟方志功と仲がよくてね。棟方志功は一時、寛永寺圎珠院の門の脇に住んでいましたよ」

――田端には寺内萬治郎、天王寺の裏には阿以田治修、天王寺には野間仁根とかいらっしゃいました。

「ああ、野間先生は面白い先生で、可愛がってもらったなあ。なんでも瀬戸内の水軍の子孫で、島を持っていてね。射的、撞球、麻雀など勝負事が好きで、釣りも得意な元気な先生でした。谷中にいた画家たちが集まっている写真も残ってますよ。鶴岡政男とか、朝倉摂さんとか。

僕の小さい頃で一番覚えているのは東山魁夷先生ですね。先生がまだ藝大の学生だった頃、店が混んでいて待っている間に、僕にずいぶん漫画みたいな絵を描いて下さいました。

親父も東山先生から2枚絵をもらったんだけれど、ある人に頼まれて貸したら返ってこなくて。そうしたら、先生から電話がかかってきて「君の絵がうちにあるよ」と。慌てて飛んでいって、実はこれこれなんです(貸した人が売ってしまった)と説明したら返してくださって、また持って帰ってきた。本当に温かい気持ちの方で。親父は2000年に92歳で亡くなりましたが、最後までお付き合いしていました。

林武先生は、藝大の学生たちに俺のまねをするな、と言ってましたね。おれがいちばんうまいんだからと。林教室の学生たちは伸びましたよね」

――フレスコ画(壁画技法)で若くして亡くなられた有元利夫さんも林教室でしたね。たしかに、モディリアーニもドガでもルノワールでも、一見してあの人とわかる個性があることは大事なんでしょうけど。それを模倣してもね。

「でも、それでずっと描いていくといつか飽きられる。ピカソのすごいところは、青の時代から始まって、長い一生のうちに画風がどんどん変化していくことでしょう。絹谷君もうまい人だが、やはり作風を少しずつ変えてますよね。腕をもっている人は変えられるんです」

――絹谷幸二さんのことですか。

「彼は僕より5歳くらい下かな。すぐ近くのアパートに住んでいたんですよ。汚い部屋で、汚いなりをしててね(笑)。でも油ですごくいい絵を描いてた。高校生のかわいい彼女がいて、いま奥さんになってますよ(笑)。

イタリアに留学してフレスコ画を学んで、向こうから最初送ってきたのが、ブルーと白の波の絵でね。そのうち、りんごの皮むきができてきて、だいぶ変わってきたなと見ていて。

で、藝大の先生になって描いている絵を見て、あるとき『先生、身体の調子悪いのかい』と聞いた。『いや、元気だよ。なぜ』って言うから、『なんであんな暗い絵を描いてるの? 病気じゃない?』って言ったら怒ってね。息子の結婚式の来賓で挨拶してもらったら、『生意気が額縁屋がいてね、わたしの絵をいろいろ言う』なんて言ってたけど(笑)、でもそれでガラッと変わったの。真っ赤な太陽を描いてね。

――書家の篠田桃紅先生とも。

「この間107歳で亡くなられましたが、父の代から長いお付き合いでした。紙を前にずうっと考えていて、しゃーっと書いて、おしまい。渋くて細い額がお好きでした。

いつ伺っても昔のことをよく覚えていてね。浅尾さんのお父さんはきゅうりが嫌いだったね、とか(笑)。1時間ぐらい話すの。で、今度は息子が伺うようになって。額縁屋の仕事は次男が継いで、五代目です」

――息子さんは、後を継ぐことは自ずと早めに決めていらしたんですか?

「なんだろうねえ。もともとは女房とふたりで働いていて、私が運転で女房が納品したりしてたの。それで一緒に連れて行って、運転させたり、うまいもの食わせたり、あちこち連れて歩いたんですよ。先生のお宅に伺って話したりするのを、黙ってつまんなそうに横で聞いてたんですけどね(笑)。そういうことからですね。

長男のほうは隣で喫茶店をしています。以前は長男も額縁の仕上げの仕事をしていたんですが、腕を痛めてしまったので」

自分で買わないと絵のよさはわからない


――最近はこれという画家はいますか。

「藝大はねえ。どうだろう。今の試験のやり方じゃ、山下清みたいなのは入れっこない。男の子も昔みたいなバンカラはいないね。藝大生にもいつも『暴れろ』『壊せ』って言うんだけどね。いまは武蔵美のほうが元気で、おもしろいかもしれない。

他人におもねって、こうしたら喜ばれるだろうって描くのはダメね。薄っぺらくなっちゃう。昔の絵描きっていうのは絵が好きで好きで、とにかく毎日描かないと気が済まないというのが画家だった。売れなくても描いてる。売れる売れないじゃないんですよ。

あと、絵はね、素人が見ていいと思うのはいいんですよ。素人が見て、すーって通り過ぎちゃうのはダメ。展覧会で流しながら見て、ふっと目が留まったもの。絵の前で人が30秒止まったら勝ちですよ。

うちの父もそんなふうに、いつも自分で見つけては身銭を切って買っていた。まず画家から絵をもらわなかった。父が買ったものは今も取ってあります。自分で買わないと絵のよさはわからないよ」



――ところで以前は、こちらのお店の前に「プールヴーモデル紹介所」の表札もかかっていましたね。

「あれは父がやっていたのですが、今は父と仲のよかった女性の、また姪御さんが近くで別にやっています」

――宮崎菊さんのモデル紹介所とは関係ないのですね。

「全く別物です。うちがモデル紹介所を始めたのは戦後、昭和24年頃ですから。明治の頃、宮崎モデル紹介所は、谷中の領玄寺の路地を入ったところにあったでしょう」

――それに近い三浦坂のことをモデル坂といったそうですね。お父さまからは、このように伺っています。

”明治の最初に洋画が出来た頃、裸体のモデルをする女性がいなくて、美術学校の茶店に勤めていた宮崎菊という人に、岡倉天心校長が誰か見つけてくれないか、と依頼した。菊さんはあちこちに声を掛けたのだが、明治時代に男性の画家の前で服を脱ぐのは恥ずかしいと、見つからない。しかたなく宮崎菊さん本人が、私ではどうでしょうか、といって日本のモデル第一号になった。そして、お年を召してからは、モデル紹介所を谷中で開業した"と。

父上、浅尾丁策さんが2冊も本を書かれているくらい、谷中と画家たちのエピソードは沢山ある(『金四郎三代記』戦前篇・戦後篇)。今回はかいつまむことにした。

お話を聞いている間にも、次々と仕事の電話がかかり、額の相談、予定、色、納期などを打ち合わせしている。

浅尾さんはそのほか、2005年から桜木町会800軒をまとめる町会長、また30代から、谷中コミュニティセンターの住民委員会の会長を務め、町の仕事にも熱心に参加されている。地域の活動についてはこう話す。

「谷中から桜木にかけては震災でも戦災でも焼けずに古い住宅が残っています。でも、持っている方にとっては相続税や固定資産税に苦しみ、兄弟で分けなければいけないときもあり、残したくても残せない。文化財クラスだから残せといわれても困るというのが本音でしょう。何か全体に保存の策を講じて、行政の補助金でも出ればよいですが。伝建(伝統的建造物群保存地区)には文化庁から予算が出るといっても微々たるものでしょう。

また木造密集地域なので、防災面も考えなければなりません。バラックも多いですから、壊れたら誰が維持するの?と思いますよね。「バラックはいずれ壊れますよね、10年保ちますか?」と言っても、「バラックも文化ですから」と言われてしまうと、もうそれ以上言えなくなってしまう。頭の痛いところです。

だけどさ、古い町だからこそ、ちゃんとやらなきゃいけないこともあるじゃない。それで、我々は行政側と話をしながら、谷中地区の景観についてこう考えていますよ、というのを3年かけてつくったんです(谷中地区景観形成ガイドライン)。町並みと人の安全を考えてどうするか。谷中は今こうしたいんですよ、という指針が大事だと思ってね」

取材・文:森まゆみ


当連載のアーカイブーSince 2018ー

森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.1ー創業67年。町中華の「オトメ」はだれでもふつうに扱ってくれるー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.2ーモンデール元駐日米大使も通った根津のたいやき
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.3ー甘味処「芋甚」は根津にはなくてはならない、お守りみたいな店である
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.4ー若い二人が引き継いだ「BAR 天井桟敷の人々」には悲喜こもごもの物語がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.5ー中華料理「BIKA(美華)」のご主人がポツリと話す根津宮永町の昔話
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.6ー鉄道員から役者、そして寿司屋へ。すし乃池の大将の人生には花と町がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.7ー5代続く骨董店「大久保美術」の心やさしい、ゆとりのある家族経営
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.8ー三崎坂のとば口にある朝日湯は谷根千に残る貴重な銭湯ー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.9ー谷中銀座の貝屋さん「丸初福島商店」は素通りできないご近所の店
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.10ー創業元治元年。江戸千代紙の「いせ辰」を訪ねると暗い気分も明るくなる
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.11ー谷中のちいさな宿「澤の屋」に年間5000人以上の外国人が泊まる理由
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.12ーいい酒と人柄のよい店主。根津「サワノ酒店」はとびきり好きなお店だ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.13ーあられ・せんべい「嵯峨の家」のいつもニコニコお兄さんー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.14ー谷中・桜木に一軒残る藤屋の豆腐は正直な手作りの味ー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.15ー谷中銀座の金吉園には、お茶のすべてを知る朗らかな茶師がいる
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.16ー大澤鼈甲のお店には、昔ながらの工房とモダンなショールームが同居している
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.17ー創業290年。畳屋クマイ商店の仕事には職人の意地がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.18ー日本画の大家たちも訪れた画材店「金開堂」。岩絵具の奥ゆかしさに惹かれてー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.19ー大島屋はブームに関係なく淡々とお店を続ける町の蕎麦屋さんだ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.20ー牧野兄弟商会オーナー・文蘭さんの「泣いてる場合じゃない」半生
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.21ー生きていくうえで必要そうな雑貨を広く浅く揃える。「あんぱちや」は根津の太陽だ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.22ー焼き鳥屋「鳥清」の味は三代の店主とお客さんに受け継がれている
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.23ー「やりたくない仕事はやれない人」になってしまった富永喜三さんが味噌商を継いだ理由
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.27ー飴作りは親父にも教えてもらわなかった。後藤の飴・三代目の心意気
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.28ー「カフェさおとめ」のある動坂下には、今もおっとりした風情がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.29ーいつもネクタイに白衣のご主人。よみせ通りの宝家は地元に愛される大阪寿司のお店
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.30ー鰻と一緒においしい地酒が楽しめる。稲毛屋に漂う三代目の心意気
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.31ー動坂食堂。隣にあったら毎日でも通いたい
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.32ー不忍通りにある柴田商店は四代続く手書き提灯のお店
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.33ーひとつのものを、責任をもって、じっくり。甲州堂印舗のはんこは名前が"映え"る
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.34ー律儀で親切、泰然自若。テート薬局のご主人はいざというとき頼りになる町の重鎮だ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.35ー根津の釜飯屋さん「松好」の3代目は爽やかで商売熱心なイケメンだ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.36ー浅尾拂雲堂はいまも昔も、絵描きたちに親しまれる額縁づくりのお店(前編)
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.37ー浅尾拂雲堂はいまも昔も、絵描きたちに親しまれる額縁づくりのお店(後編)
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.38ー東京で一番古いジャズバー「シャルマン」。ご主人は元常連客だった歯医者さん

Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/




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