2022年03月21日更新

浅尾拂雲堂はいまも昔も、絵描きたちに親しまれる額縁づくりのお店(前編)ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.36

『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回はいまも昔も、絵描きたちに親しまれる額物づくりと絵画修復のお店「浅尾拂雲堂」へ。(編集部)

父はハイカラな自由人。川端康成の注文で額縁をつくったことも


浅尾さんの店は言問通りから東京藝大へ抜ける細い道にある。緑色の木枠の洋風の喫茶店と、右のほうに額縁屋さんの作業場の入り口と事務所のドアがある。

私はもう30年前に先代の浅尾丁策さんにお話を伺った。「谷中の生き字引」であった額縁作りの浅尾丁策(ていさく)さんは三代目金四郎を名乗り、谷中あたりに住んだ戦前戦後の美術家たちに詳しかった。今回はその子息、四代目の浅尾空人(あきひと)さんに聞く。

「うちの父と上口愚朗(かみぐちぐろう・テイラー、陶人)、星谷安久利(ほしやあぐり・江戸時代の鳶「れ組」の家系で、美術展設営・陳列などを行う)が谷中の三奇人といわれていましたよ。僕に言わせれば父はハイカラな自由人でしたね」

――空人という名前をつけたのはお父さんですか。しゃれた名前ですね。

「くうじんとみんな呼ぶけど、ほんとうはあきひと。昭和13年12月1日生まれで、ちょうどその日にドイツから初めて無着陸飛行機が日本に来たらしいんです。空から人が来たというので、空人」

――ツェッペリン?

「いや、そうじゃないです、あれは飛行船」

――以前、雑誌「谷根千」23号の取材で伺ったとき、丁策さんはお店の歴史について、こうおっしゃっていました。

"私の祖父、浅尾曽平は高崎藩の藩士でしたが、御一新後、二君に仕えずと、武家の商法で士屋敷の整理や古道具の整理を手がけたところ、目が利くので、結構成功したらしいんです。そのうち書画に凝って、筆も自分で造り、拂雲堂と屋号をつけた。そのとき名前も商人らしく金四郎を名乗ったんです"と。

「そのとおりです。もともとは右筆(ゆうひつ=武家で、文書や記録をつかさどる職)みたいな仕事で。拂という字は中国語で筆という意味だそうです」


父・浅尾丁策さん

――丁策さんによれば「二代目金四郎である父浪治は12歳で上京し、九段下の玉川堂という筆匠に厄介になりました」と。

「一時は銀座の鳩居堂でも修行したと聞いています」

――"そのうち、洋画が始まり、筆がみんな輸入物で高いので、浪治は山本芳翠、黒田清輝の両先生に励まされて、洋筆を借りてばらして、国産の洋筆の第一号を作って売り出しました。下谷二長町(したやにちょうまち)、市村座の真裏で「浅尾拂雲堂」のパレット型の看板を掲げ、大概の先生方に使っていただいて美術学校ご用となりました"と。

「油絵の筆が日本にないので何とかならないかということで、向こうから持ち帰った筆を黒田先生に提供してもらったそうですよ。祖父は筆を分解して、筆に使うブタ毛を探しに鎌倉ハムまで行ったと聞いています。それが洋筆製作を始めたきっかけで。美術学校御用達になったのは昭和4年ぐらいです」

――関東大震災には遭われなかったのですか。

「遭いましたよ。当時は下谷二長町にいましたから。それでこちらに引っ越してきて、店を構えたんです。歯医者さんのあとが空き家になっていたので。それがいま隣の喫茶店になっている建物で、以来、直し直しながら使っています。仕事場にしているこちらの建物は、昭和34、35年ごろに建て替えたものですが、私が結婚するからと建て直したら親父が住んじゃった(笑)。お前はあっちの角のボロ屋に行けと」

--父上、丁策さんは明治40年生まれで、学校を出て、一時は火災保険会社に勤めたが、体を壊して神田駿河台の竹見屋という画材屋に勤めたと。それで桜木町に移ると、美術学校の先生方が、筆だけではなく、画材全般を扱ってくれというので、キャンバスや額縁まで扱うようになった。

"松下直義という青年に頼まれたのがきっかけで、額縁をはじめた。同じ桜木町に住んでいた川端康成さんがデッサンを持ち込まれ、合わせて額をつくってほしいと言われたこともある"と語って下さいました。

「当時は一子相伝で、長男が継いで筆職人になったので、次男だった親父は教われない。それで竹見屋という画材屋でいろいろなことを覚え、お客さんをつくって、ここに引っ越してきたわけです」

大空襲で広島に疎開。原爆の猛煙も目にしました


--お母さまはどこから来られたのですか。

「稲子といって、向柳原の経師屋の娘だった。お見合いです。母方のおばあちゃんがちょっと面白い人でね。品川の荒神様の会を作ったり、成田山に大きな石塔を寄付したり、それから東京で小さなかわいい花らっきょうを初めて作ったと言ってました。

顔の広いひとで、花井お梅とも知り合いでね。花井お梅というのは芸者さんで、殺人事件を起こしてそれがいろんな舞台や小説にもなった人ですけど、うちのおばあちゃんは仲居で、お梅さんと一緒に住んでいたことがあったらしい。

――へええ、そうなんですか。それで終戦のころは?

「昭和20年3月、ちょうど僕が国民学校に入る前ですよ。寛永寺幼稚園が封鎖になって、谷中は空襲を受けました。3月4日の空襲では爆風がすごかった。うちの中がすごく揺れてね。爆弾を40発くらい、日暮里から谷中小学校のところを抜けて根津のほうへダダダダダダッと落としていった。

雪が降った日です。電信柱に体がぶら下がっていたとかいいますよね。僕は店の防空壕に入ってたのですが、敵機が行ったので何が起こったのかと恐る恐る外に出てみると、この近くの浜野病院、今の中銀マンションのところにリヤカーに乗せた病人が運ばれて、車寄せのところで院長先生がこれはだめ、これは診る、と選別していました。この辺で一番大きな病院でしたからね。結核病棟もあって」

――いまでいうトリアージのようなことが行われていたんですね。

「亡くなった人は大行寺に穴を掘って埋めたと聞きました。3月10日の東京大空襲のときは、うちの店の二階から周りが真っ赤になるのを見てましてね。根津のほうも爆撃で明るかった」

――ええっ、浅草の方角だけでなく、根津のほうも?

「それでたしか4月23日に広島へ疎開しました。八本松という広島市からは30キロくらい離れたところで、母方のおばあちゃんの家にいた書生っぽの伝手を頼っていった。母と祖母と私と妹と。兄はもう学童疎開していました。東京駅で、敵国アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトが死んだというのでみんなが万歳していたのを覚えています。十何時間かかったんですかね。とにかく満員で。

疎開先で小学校に上がって、いじめられましたね。食べるものもないし。ただ裏山で松茸が山のように取れて、それだけは贅沢に食べた。

原爆が落ちた時はその光が見えたと聞きました。僕たちは小学校に行っていて、敵機が来たというので山へ逃げて、ものすごい煙があがるのを見ていました。その疎開先で母方のおばあちゃんは亡くなりましたね」

――父上、丁策さんは疎開しなかったんですか。

「そのころ、絵の関係で、親父は飛鳥山の造幣廠に勤めていましたから、東京にとどまっていました。仕事はほとんどしてなかったようですが、毎日軍の将校のところへ行き、絵についての話や作家についての説明や、作品などの話をしていたようです。

そこでは、以前よりお付き合いのあった藤田嗣治先生とご一緒させていただいたようでした。私は週末になると美味しい『栗まんじゅう』を持って帰ってきてくれるのが待ち遠しかった記憶がいまも鮮明によみがえってきます」

――空人さん、ご兄弟は?

「4人兄妹で私は次男、兄の陽太郎は銀座の彌生画廊にいました。兄貴は俺はうちを出るからあとはお前がやれって、こっちは残されちゃって。妹が千絵子、絵理子です」

――まあ、妹さんたちはお二人とも名前に「絵」が入っているんですね。それで、広島から戻ってこられたのは?

「21年に戻ってきたのかな。戦争が終わるとこの辺にも進駐軍がジープで来ましたよ。今桜木会館になっているところに、戸村ヘンリーという、日本人で進駐軍の通訳をしていた人が住んでいて、面白い人でしたよ。

うちの親父とも親しくしていてね。進駐軍の将校たちが来ると、おふくろもダンスを踊ったりしていたんですよ。昭和29年頃まで、宝塚を接収してアーニー・パイル劇場になったでしょう。母も近所のおばさんたちと一緒に着物を着て、アーニー・パイルでショウをやったりしていました」

――浅尾さんの道の反対側にある桜木会館は、区に払い下げられる前は都が所有していたのですよね。明治の民家だそうですが。

「東京都が職員共同組合かなんかの場所にして、そこで職員の結婚式とかやっていたんだけど、そこを東京都が更地にして資材置き場にするというので、反対してなんとか残すようにしてもらった。台東区に払い下げてもらって、お神楽で二階を乗せていたのを取って平屋にして、今は町会などで使っています」

――お父さまからは、この一帯の地主は小林幸子(こうこ)というおばあさんで、田中光顕伯爵の後妻さんだったとお聞きしました。

「上野桜木町はお妾人道といわれるくらい、多かったね。大店のご主人なんかが、上野や浅草の花柳界の女性を住まわせて、通っていたようですね」

――小学校は谷中ですか。

「池の端の忍岡小学校に通っていました。桜木の家の隣にカトリックのドミニコ修道院ができて、そこの神父さんが父に『学校は大事だよ、暁星に入れたらどうですか』と紹介してくれたので、中学から暁星に。上野から秋葉原、総武線で飯田橋まで行ってそこから歩いて通っていました」

芝居に明け暮れた学生時代。黒柳徹子さん、宮城まり子さんとの舞台も


――空人さんは、いつから後を継ごうと?

「僕は大学時代4年間、劇団をやっていたんです。浅草松屋デパートの上のスミダ劇場の「かたばみ座」に入って、いろいろなことをやって遊んでた。その当時の仲間の、歌舞伎役者になった中村東蔵や『落語大百科』を書いた川戸貞吉、ドリフターズの脚本を書いていたのと4人で「さぼてん・ぐるうぷ」という劇団をつくって、九段の千代田劇場で公演したり。

2回目の公演には、まだうら若い黒柳徹子さんを引っ張り出してね。4年間、芝居に明け暮れた。NHK草創期の連続ドラマ『事件記者』にも、僕、出てるんですよ」(当時の資料を見せてくださる)



――すごいメンバー。こっちの写真は、宮城まり子に三木のり平、藤間紫、越路吹雪! 八波むと志もいる!

「それは新派、新劇、全部集まって新橋演舞場でやったときのもので、素人は私と3人しかいない。僕は宮城まり子と絡んで芝居をやったりしてるんです」


右が浅尾空人さん

――うわあ。芝居をやることにお父さまは反対したりしなかったのですか?

「好きにやっていればいい、と。こっちも好きにやっていて。劇団で若者たちを50人くらい集めて鎌倉に1週間下宿させて、芝居の公演をしたり。親父には、将来的に人との付き合いとか勉強にもなると思うからといって」

そこへ奥様が現れ、コーヒーを入れて下さった。

「うちの家内はずっと踊りをやってて、踊りの師匠が西川扇蔵さんでしたよ。

僕は学生時代、銀座の日動画廊の並びにあったバーで毎晩のように飲んでて、そこのマスターが、うちの従姉妹が踊りを踊るからって言われて見に行って、『なんだ、あんな下手くそ』ってけなしたら、そのままに一緒になっちゃった(笑)。家内も高校時代、夏休みにそこでアルバイトをしたりしててね。

老舗キャバレーの『白いバラ』もよく行きました。僕は6時ごろから入ってね、ナンバー1の女の子たちに踊りを教えてました。あの頃、ダンスをするのが流行っていたからね」

――あそこは2018年に閉まってしまいましたね。私も最後に行きました。でもずっとお芝居をされていて、その道に進もうとは思わなかったんですか?

「大学卒業して芝居はすっとやめちゃったの。それで家に帰ってきた。でも何もわからなくてね。絵もわからないし、何がよいのかもわからない。それで、とにかく絵を見て歩いた。ピカソの青の時代を見て、すげえなあと思ったのが最初です。そのあと小出楢重(こいでならしげ)の裸婦の後姿を見てガツンとやられて、そのあたりから少しずつ」

後編に続く→森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.37ー浅尾拂雲堂はいまも昔も、絵描きたちに親しまれる額縁づくりのお店(後編)


取材・文:森まゆみ


当連載のアーカイブーSince 2018ー

森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.1ー創業67年。町中華の「オトメ」はだれでもふつうに扱ってくれるー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.2ーモンデール元駐日米大使も通った根津のたいやき
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.3ー甘味処「芋甚」は根津にはなくてはならない、お守りみたいな店である
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.4ー若い二人が引き継いだ「BAR 天井桟敷の人々」には悲喜こもごもの物語がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.5ー中華料理「BIKA(美華)」のご主人がポツリと話す根津宮永町の昔話
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.6ー鉄道員から役者、そして寿司屋へ。すし乃池の大将の人生には花と町がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.7ー5代続く骨董店「大久保美術」の心やさしい、ゆとりのある家族経営
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.8ー三崎坂のとば口にある朝日湯は谷根千に残る貴重な銭湯ー
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.10ー創業元治元年。江戸千代紙の「いせ辰」を訪ねると暗い気分も明るくなる
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.11ー谷中のちいさな宿「澤の屋」に年間5000人以上の外国人が泊まる理由
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.12ーいい酒と人柄のよい店主。根津「サワノ酒店」はとびきり好きなお店だ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.13ーあられ・せんべい「嵯峨の家」のいつもニコニコお兄さんー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.14ー谷中・桜木に一軒残る藤屋の豆腐は正直な手作りの味ー
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.23ー「やりたくない仕事はやれない人」になってしまった富永喜三さんが味噌商を継いだ理由
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.24ーパリの味、東京の味。ストレルの洋菓子は谷根千の味でもある
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.27ー飴作りは親父にも教えてもらわなかった。後藤の飴・三代目の心意気
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.29ーいつもネクタイに白衣のご主人。よみせ通りの宝家は地元に愛される大阪寿司のお店
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.30ー鰻と一緒においしい地酒が楽しめる。稲毛屋に漂う三代目の心意気
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.31ー動坂食堂。隣にあったら毎日でも通いたい
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.32ー不忍通りにある柴田商店は四代続く手書き提灯のお店
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.33ーひとつのものを、責任をもって、じっくり。甲州堂印舗のはんこは名前が"映え"る
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.34ー律儀で親切、泰然自若。テート薬局のご主人はいざというとき頼りになる町の重鎮だ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.35ー根津の釜飯屋さん「松好」の3代目は爽やかで商売熱心なイケメンだ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.36ー浅尾拂雲堂はいまも昔も、絵描きたちに親しまれる額縁づくりのお店(前編)
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.37ー浅尾拂雲堂はいまも昔も、絵描きたちに親しまれる額縁づくりのお店(後編)
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.38ー東京で一番古いジャズバー「シャルマン」。ご主人は元常連客だった歯医者さん


Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/
連載もの: 2022年03月21日更新

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