2022年01月24日更新

ひとつのものを、責任をもって、じっくり。甲州堂印舗のはんこは名前が"映え"るー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.33

作家の森まゆみさんによる連載です。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は、はんこの甲州堂印舗へ。(編集部)

鍋釜と嫁さんだけ連れて、山梨から出てきた祖父


不忍通り沿いにある、はんこの甲州堂印舗を訪ねた。店に入ると左手に「甲州堂」という大きな看板がある。「もうそのぐらいしか、名残(なごり)のものはないんですけどね」と三代目の遠藤繁明さん。

――まずはお店の歴史からうかがいます。

「創業は1920年、大正9年です。今年で101年ですね。その看板は先々代の祖父が商売を始めたときのもので、甲州堂という名前からもわかるように、祖父は山梨の出なんです。山梨ははんこの本場なのでね。先に祖父の兄貴が神田に出てきて同業をしていたので、それを頼って祖父も出てきたんですね」

――山梨がはんこの本場というのはどういうことなんでしょう。

「既製品の認め印って、山梨が一大産地なんです。ひとつには、当時は土地も痩せていて、ぶどうくらいしかできなくてね、内職でやっている人が多かった。はんこを作るのに広い作業場はいらないですからね。あと、山梨は水晶が採れますから。神田の祖父の兄のところでは、その水晶の商いもしていたんです」

――おじいさまは何というお名前ですか?

「祖父は巳之作といって、明治28年生まれ。甲府と静岡の富士をつなぐ身延線の市川大門のあたりに本家がありました。今は空き家になっていますけれど」

――おじいさまはどうして根津に来られたのですか?

「とくにこのあたりに縁者がいたわけではないようなんですけどね。鍋釜と嫁さんだけ連れて、山梨から出てきたみたい。商売をやる以上、表通りじゃないと、と必死で探して、ここを見つけて。

それこそ、店を片付けて蒲団敷いて寝るぐらいの小さな店だったらしいです。隣が大きな乾物屋で、その壁を借りながら軒を出して、店を始めたようですよ。それを"おだれ"というらしい」

――どんな字かしら。尾垂れかな? 母屋の脇に下屋を出すというか、軒先を借りる感じですね。そのころ、このあたり、ほかにはんこ屋さんはあったんでしょうか。

「なかったと思いますね。根津で、そのころから同じご商売をしている店はもうほとんどないんじゃないかな。いらっしゃるけども、建て替えてご商売はやめたところも多いでしょう」



――おじいちゃん、おばあちゃんはどんな方でしたか。

「祖父は風流人でしたね。最後まで着物を着ていました。はんこの仕事は、いまは機械も使いますが、そのころは全部手彫りでやっていました。亡くなったのは私が大学のときだから、覚えていますよ。

おばあちゃんは、私が3歳の頃に亡くなっているので、記憶はないんです。赤ん坊の時は、抱かれてかわいがられたようですが」

――お父さん、お母さんは?

「父は正房といって、大正12年の生まれで、88歳までずっと根津にいました。母は茨城の出で、結婚前は日本橋の繊維問屋に務めていたんですが、そろばんができたので、家でも経理をやっていました。父は9年前に、母は去年亡くなりました。

母の勤めていた問屋の社長が、うちの祖父の妹でね、社員にいい子がいるよ、と父に紹介してくれたんです。社長さんはちょっとした有名人で、気軽に着物が着られるようにさまざまな発明をして特許を取ったりと、アイディア豊かな、ひとかどの人でしたね」

--繁明さんが生まれたのは?

「私は昭和36年(1961年)生まれ。上に姉がいます。物心ついたころの根津は、まだ木造の、いわゆる谷根千の世界ですよ。路地があって長屋があって、子供も多くて。このあたり、覚えているだけで3回くらい、台風で水があふれて、膝下くらいまでかな。子供ながらに小さいボートに乗ったこととか覚えています。今でも裏路地のほうでは割と床を高く建てている家がありますよね。

子供の頃は根津神社とか、無料で行けたから上野動物園でも遊んでいましたよ。不忍池で釣りもできたし、東大の三四郎池で虫取りもしたし、楽しかった」



――お仕事は、お父さんから習って?

「父は、祖父から直々でしたけど、私は印章組合がやっている訓練校みたいなところがあるので、そちらに数年通いました。大学を出て、自動車関係の会社でサラリーマンをしていて、25ぐらいから始めたので、ちょっと遅いんです」

――ゆくゆくは、後を継ぐ気持ちがあったんですか。

「なんとなくはね、長男だから。まだ昭和の時代で、仕事量とか売上の面でも継がせる価値があるというかね。でも、そんなに深くも考えなくて、父から『そろそろ、どうだい』みたいな感じだったんじゃなかったかな。



実印は一生もの。回転率の商売ではない


道具を見せてもらった。いわゆる彫刻刀で、自分で使いやすいように竹の皮で巻いて、刃が動かないように固定してある。飴色のは先代が作った年季の入ったものだ。細かい仕事ですねえ。

「はんこ作りは、昔のように全部手仕事でやる場合もある。今は機械で文字を書くこともできる。いろいろあります。使い分けですかね。ただ、いずれにしても、最後は手で仕上げをします。

昔みたいに、徒弟制度で弟子を取るような先生もおられなくなって、今は全国の組合のメンバーも1000軒を切りました。一番多い時は5000軒ぐらいあったんですよ」

――このお仕事の楽しさ、大変さは何でしょう。

「できたときにお客さまに喜んでもらえることですよね。必要がないと買わない商品というか、まあ、しょっちゅう買うものじゃないですから。結婚の時とか、家を建てる時に実印を作られますね。うちの親もこちらで作りました、という方もいます。意外に知られていないんですが、車を買う時にもいりますよ。

一生のうちで、1回ないし2回。そのぐらいのインターバルですからね。回転率の商売ではないのでね。ひとつのものを、責任をもって、じっくり、という感じですかね。根津駅にも、うちの宣伝が出ていると思うんですが。『人生の節目に実印の贈り物を/よい材、よい彫り、よいハンコ』と。後半の『よい材、よい彫り、よいハンコ』というのは、親父の口癖でした」

――私も結婚するときに、母が、家の前のはんこ屋さんで作ってくれました。

「女性の方は名字が変わることも多いですから、姓ではなく、下のお名前で作ることをおすすめしています。それで印鑑登録もできますし、銀行でも使えますから。割に知らない方、多いんです」

――私も「まゆみ」で作ってもらいました。

「名字でも、名前でも、フルネームでもいいんですけど、名字っていうのは、親戚一同、同じですけど、お名前というのは、その方だけのためにご両親がつけてくれたもので、それが個人を特定するんですよ、とお話ししたりします」

――はんこの材料としてはどんなものが?

「牛の角、象牙、そして柘植の木製のものです。象牙はワシントン条約で規制されて、特別に登録している業者でないと扱えない。主には黒い牛の角と、昔からある柘植のものでしょうかね。柘植で1万円、牛の角は2~3万円かな」



――実印の売れ筋というのは、いくらぐらいなんでしょうか。

「今はデフレで単価は下がっていますね。私が継いだころは肌感覚で、2~3万くらいの間でしたけれど、今は1万円ぐらいでしょうか。昔は親御さんが一緒に見えて、『はんこは一生ものだから、いいものを』とおっしゃる方も多かったんです。中には印材を持ち込む方もいますね。先代が使っていたものを、表面を削って作り直してくれと言って」

――そういう依頼もあるんですね。

「象牙とか、水牛はね。柘植の判は彫り変えできないんです。亡くなったときにはんこをどうするか、と よくご相談も受けるんです。『捨てられないけど、どうしたらいいですか』と。

その方がご商売をされていたり、出世なさった方なら、その判を押していろいろな決裁をしながら、人生、渡ってこられたわけですからね。表面を擦って彫り変える方もいらっしゃるし、遺品としてお棺の中に入れる方、あるいは大事に仏壇の中に納める方もいます。

あと京都の下鴨神社では、印納祭といって、印璽社(いんのやしろ)で実印の供養をしています。使わなくなったはんこを私どもがお預かりして、代表が持っていく。大きな祠があってそこに埋めるんですね」



――はんこの書体、これは篆書(てんしょ)ですか?

「そうです。私たちも適当には書けませんから、組合でつくった文字の冊子があります。たとえば、根津の「津」という文字も、こんなふうにいくつかあるんです」

――私、この書体大好きです。でも、これ、そのうち読める人がいなくなっちゃうんじゃないかなあ……。どの書体でもいいんですか?

「どれでも大丈夫。ただ、我々が商売で彫るときは、下のほうに並んでいる印章新体かな。古い文字をもう少し読みやすくしたような」

海外からの父宛の手紙に感謝の印


――あら、アンさん、ラオさん、アニタさんなど、カタカナの名前のハンコもありますね。

「コロナ流行の前は、日本滞在の記念にと、海外からの旅行客がお土産に作る方も多くて、澤の屋旅館さんに宿泊されている外国人のお客さんがお見えになったりしました。

うちの親父はずっと根津だったから、いかにも職人って感じでしたけど、お客さんと話をするのが好きでね。「お国に帰ったら、お手紙くださいね」なんて言うと、皆さん、ここで作ったはんこを押してエアメールを送ってきてくださったりして、うれしそうでしたよ。その英語を私が訳したりしてね。いただいたお手紙は今も大切に保管しています。


建て替え前の店舗で仕事をする二代目の正房さん。英字紙で紹介されたことも

そのほか、留学生の方もいらっしゃいます。日本だと、ハンコがないと口座も開けなかったり不便するのでね。これらは機械で作ったものです」

――私なんかは「森」で、認め印はどこにでもありますが、難しい名前の方は大変ですよね。

「だいたい、5千姓ぐらいはどこのはんこ屋さんでもありますけどね、珍しい名前の方はお作りします。2000円くらいですよ。

実印の場合も、いまは文房具の延長上みたいな感覚で、安く、早くというお客さまが多いですね。銀行印はお金を引き出すときには必要でしたが、その習慣もなくなって、ATMで引き出し、振り込み、何でもできますし、カードも使えます。インターネットの時代、ネット決済もできますし。最近はLINEとかPayPayとか。

2021年の春先ぐらいからは、河野太郎さんたちの『はんこ不要論』なども出ていて、それに対しては私たちの組合をあげて陳情をしています。実印という制度は残してくださるようですが……」

――たしかに、デジタル庁ができて、マイナンバー制度ができて……。それにしても、はんこ屋さんっていつくらいからあるんでしょう。

「江戸時代の時代劇なんか見てると、印判屋というのが出てきますね。一般に普及したのは、あのころなんじゃないですか」

――それこそ、歴史をさかのぼれば、王様や皇帝の印は、中国の皇帝の「漢倭奴国王」と刻まれた志賀島の金印とか、天皇の御名御璽とかもありますね。ほかに、商っているものはありますか。

「表札もありますが、これもまた一軒家からマンションになったり、個人情報保護で、いまは表札を出さない方も多いですからね。落款は絵手紙に使う方もいますが、これもゴム印で作る方が多いですね。あとは蔵書印とか」



遠藤さんはここで製作をし、ここで売る。小さな店と謙遜されるが、この空間をフルに活用されている。趣味を尋ねると、「車が好きですね。今でもドライブしますよ」という答えが返ってきた。

――跡継ぎさんはいないですか。

「息子と娘がいるんですが、子供たちは勤め人1本でしょうね。継いでもらって、彼らの人生がよくなるんだったらいいですが、この業界、とても今はそういう余裕はないですね。親から引き継いだ店で一人だからやっていられますけど、地代や賃料を払って、ということになったら、難しいでしょう。まあ、私の代までは何とかやろうと思いますけどね」

――今また根津はミニバブルみたいですね。

「マンションバブルですね。まあ、今、根津でもてはやされているお店も別に根津と関係はないような。でもあとから来た人の方が、商売は上手ですね。映えというのか、インスタなどSNS使うのも上手だし。まあ、根津は大手町まで10分で行きますし、便利ですから、住みたい人が多いんでしょう。

以前は根津に芸人さんが多くてね。芸人長屋というのもあったし、玉川勝太郎師匠とか、立川談志師匠も弟子に鞄持たせてこの辺歩いておられましたが。亡くなってさびしいですね。

ただ、難しい時代になりましたよね。その辺を歩いている子供が悪いことをしたら、昔は『こらっ!』と叱る人がいっぱいいたけど、今は言えないし。『どこの子だい?』なんて聞くのも、個人情報でダメとかね。

昔は近所の人が子供も叱って育てましたよね。私も赤津湯や山の湯に通いましたが、こわい親父がいたなあ。そういう意味では、私や森さんが知っている『下町』とは全然違いますよね。昔は町をゆく人、どこの誰とわかったものですが」

本当に、遠藤さんの話は無駄がなく、1時間お話聞いてみっちりあった。



そこに細くて小さな印が置いてあった。わ、かわいい。

「それは訂正印として、帳簿の細かい数字や文字などを直す時に押すんです。もう帳簿を使わないから、こういうのもなくなっちゃいますよ」

「わたし、これいただきます」と叫んでしまった。「700円ですが、取材してもらったから特別500円でいいですよ」とご主人は鷹揚に笑った。「映え、しますかね」。一見シニカルな感じもあるが、実はやさしくて、芯のある方である。

取材・文:森まゆみ


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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/
連載もの: 2022年01月24日更新

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