2021年05月26日更新

いつもネクタイに白衣のご主人。よみせ通りの宝家は地元に愛される大阪寿司のお店ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.29

作家の森まゆみさんによる連載です。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は押し寿司や茶巾、みょうが寿司など、大阪寿司の名店として地元で愛される宝家へ。(編集部)

独立時の貯金は10万9000円。まさか寿司屋になるとは思ってなかった


よみせ通りは、以前は谷中銀座に比べてずっと静かな通りだったが、谷中銀座が飽和状態になって、こちらもお店が増えてきた。ただ、食べ物系でずっとある店はコシヅカハム、キッチンマロ、鰻の山ぎしほか、意外と少ない。

雑誌「谷根千」を早くから置いていただいたのが、持ち帰りの大阪寿司の宝家さん。一間半間口の小さな店、目の大きな血色のよいご主人と髪を大きく結ったあでやかなおかみさんで当時は切り盛りしていた。久々に店に伺い、「近いうち、お話聴かせていただけますか?」と声をかけると、「今でもいいよ」ということで、飛び込み取材となった。



ご主人のお名前は高見勇さん、いつもきちんとネクタイを締めて白衣をつけている。静かに話す。

「昭和38(1963)年に、25歳でこの仕事を始めたんです。だから、半世紀以上やってる。生まれたのは昭和12(1937)年。もう83歳ですよ。私は富山の八尾の隣町、大沢野町神通の出身です。神通川ってあるでしょ。親父は富山で鱒寿司をやってました。7人きょうだいでしたから、中学を出てすぐ裸一貫、東京に出てきたんです。

蔵前にあった高見食品という、叔父のやってる店に姉が養女で行っていたので、そこを頼っていった。そこでは、おいなりさんに使う油揚げを作っていて、神田とか人形町の志乃多寿司に入れていました。そのほか銀座の寿司栄さんとか、松坂屋と高島屋に入れていた八木食品にも卸してましたね」

――じゃあ、最初は油揚げを揚げていたんですか。

「そこで、いなり寿司の油揚げを作っていたんですよね。それを配達に行くうち、人形町の志乃多さんから『休みのとき、手伝ってよ』なんて言われて、土日の休みに志乃多寿司を手伝ったりしているうちに、自然と覚えちゃったんですよ。

でも、まさか寿司屋になるとは思ってなかったんですけどね。豆腐屋になる予定でした。そしたら、出入りしていた大西油店のご主人が、『お前、今から豆腐屋は立ち行かないよ。寿司屋やりなよ。俺のとこで根津にマーケットがあるから、一日200円で貸してやるよ』と。それで根津に来ました。そのときはね、忘れもしないんだけど、貯金は10万9000円だったの」

——大西油店さんはどこにあったんですか。

「浅草のビューホテルの裏のほうです。大西さんは僕より6つぐらい上でしたけど、その後5年くらいで若くて亡くなったんですよ」

——根津のマーケットってどこですか。

「宮永市場といってね。根津の赤札堂から千駄木のほうに一本道を入ったところの裏路地に、鶏屋さんがあったでしょ。その隣が江戸前の寿司屋だったかな。今は大きな喫茶店みたいになってるよね」

――あ、カフェ・ノマドはこの前、閉店しました。鳥勝も閉店しましたね。

「あ、そう? マーケットはそのあたりにあって、そこの真ん中の畳3枚分、1坪半をね、貸してやるからそこでやれ、と。家賃はお金が貯まってからでいいからと面倒見てくれて。そこを知り合いの大工さんが8万100円で造作してくれたの。お金はできてからでいいから、と貸してくれてね。冷蔵庫は5万5千円。これも友達の、蔵前の後藤電気が買ってくれて、始めました。今考えてみれば、おっかないよね(笑)」

――よく覚えてらっしゃいますね。畳3枚分の店だと、どこに寝泊まりしていたんですか?

「住まいは上の4畳半です。お風呂は目の前の宮の湯に行ったな」

——富山から出てきて十数年、相当苦労もされたんでしょう。



「東京に出てきてすぐ、ああ、このままじゃダメだなぁ、高校くらい出ておかないとと思って、両国の安田学園の夜学に通いました。いやあ、大変でしたよ。お店が終わってから学校に行って、店に帰ってきても食べ物はないしさ。若い衆がたくさんいたから、もうほとんど何も残ってないんだよね。

今でこそコンビニとかあるけど、当時はそんなのないからね。豆腐を食べてしのいだり。腹減ったら寝られなかったですよ。今だから笑いながら言えるけどね」

寝る暇もないくらい忙しかった。谷中銀座は人が多くて、朝晩は歩けないくらいだったね


――独立されてからは順調でしたか。

「昭和38年頃は高度成長で、品物はあれば売れましたよ。夜中の2時から働き通しで夜の9時、10時ごろまで、作っても作っても売れた。どこから話を聞いたのか、御徒町の二木の菓子でも、おいなりさんを卸しましたよ。朝の5時においなりさん卸してくれというの。

もう寝る暇なかったですよ。そのほか、パン屋さんとかにも若い衆がいるから、本郷、神田、日本橋、銀座あたりまで、おいなりさんとか太巻きとか卸しに行きましたよ」

――根津からここに移ったのは?

「5年で自分の店を持とうと決めてました。そしたら3年でここを買えたんです。

そう、最初はこの場所は、いま谷中銀座にある福島貝店さんだった。福島さんの後が甘味屋さん、電気屋さん、靴屋さんと、何度か店が変わっています。うちがきた時、内装変えるので地面を掘り返したら、甘味屋の看板とか、前の商売の跡がいろいろ出てきましたよ。

買ったときには、7年前に建てたと言ってましたから、もうこの家も60年以上経っているでしょう。あれから直し直ししながら、建て替えてはいません。根津は人情があって、あの頃のお客さんが今でもずいぶん来てくれますよ。

店の外に置いてる植木鉢、あれ万年青(おもと)っていうんだけど、近所に住んでいたおばあちゃんがくれたの。縁起がいいからって。それが育ってこんなになった」

――宝家という屋号は?

「高円寺の宝家さんという同業者がこの名前をくれたんです。古い話ですねえ。茶巾の卵を焼いたりするのもそこで教えてもらいました。あと巣鴨の駅前には八千穂寿司という大阪寿司があって、この海苔巻きやいなりのサンプルなんかは、50数年前に八千穂さんが作ってくださったんです。八千穂さんは、今は移転されたようだけれど」

一生懸命な若い高見さんをみんなが引き立てて、応援してくれたのだろう。こういう店は寿司屋でなく「おいなりや」と呼ぶそうだ。私はここの茶巾寿司が大好き。よみせ通りを通るとたまに買って帰ることがある。



――こちらに移ってからも売れたんでしょう。

「売れましたねえ。浅草のお寺では、飯台を50台もとってくれたり。おいなりはお稽古事のおさらい会とかにいいし、法事だと桶に入れた寿司が出る。この辺のお寺さんもたくさんとってくれました。今は個人のお客さんですね」

――よみせ通りはずいぶん変わったでしょう。

「変わりましたよ。来た頃はまだ夜店が出てましたもん。夜になると、本とか、おもちゃとか持ってきて、屋台を出して売る店があったんですよ。月に2度くらい日を決めて。昭和42、3年までやってましたかね。

ここに来た頃はまだ西日暮里駅がなかったし、地下鉄千代田線もなかったから、日暮里駅に向けて谷中銀座に人が吸い込まれていった。朝晩はもう歩けないくらいだったね」

——その頃もお一人でやってたんですか。

「いや、一番多い時は6、7人いました。寿司酢も、店のみんなにブラインドで味見してもらったら、キサイチさんのリンゴ酢がおいしいということで、それを使ってます。河岸へは毎日5時出発で、千住まで車で行っています。帰って自宅に車を置いたら、仕入れたものを自転車に載せて、朝7時前には店に来ますよ」

——「谷根千」も長年置いていただいて。おかみさん、すらっとしてテキパキ働いておられましたよね。

「あの人、60になったら、店のほうはやめさせていただきます、といって、それから出てきません。家で呑気にやってますよ。足が悪いからね。あれからもう20年、いろんな人が売るほうを手伝ってくれました。今いる方は前の煎餅屋の加賀屋さんに長年勤められて、加賀屋さんが閉められたのでうちに来てくれたんです。本当によくやってもらってます」

——後継ぎはおられないんですか。

「息子はこの商売を見ててね、俺はいいけど、奥さんになる人は大変だから俺は継がない、とサラリーマンになりました。

あと、どれくらいやれるかわかりませんけどね、やってみようかなあと。実は5、6年前に、私も一回やめたんです。そうしたら身体がおかしくなっちゃってね。医者に行ったら『お前、もう一回働け。無理はしなくていいから、少しずつやってなさい』と言われてねえ(笑)。それでまた始めちゃったの。自分でもびっくりしてるよ。

今は週休2日にして、休みの日には茨城のゴルフ場に通ってます。この辺の店の友達と行くんですよ。そういえば、森さんのお父さんが亡くなった時に、お母さんからゴルフのクラブセットをいただきました」

無駄のない動き。茶巾の卵の薄焼きができるまで


「はい、いらっしゃいませ」

表に出したお店では桜の盛りでどんどん売れていく。店員さんが、「みょうが、できますか」とご主人に聞く。

「5年ぐらい前から、みょうがの巻き寿司を始めて、これが結構売れているんです。四国産で、野中ストアさんを通してミョウガを仕入れるんですが、一年中ありますよ。さっぱりしておいしいと言って、遠くからも買いに来てくださる」

取材がなかったら、ちょうど茶巾の卵焼きを焼くところだったという。オムライスの上にのせる卵焼きすらきれいに焼けたことのない私、この薄い卵を作るところを少し見せていただくことに。



ご主人、ちょっと時間がかかりますよ、とまずは寿司飯を研いで、仕掛けた。その次に、大きなあたりバチに魚のすり身を入れる。ゴリゴリ。次に目分量で砂糖をどっさり。

「これで2キロぴったりです」

ゴリゴリ。次に大きなボウルから卵を漉しながらそそぎ入れる。ゴリゴリと、滑らかないい音。これは、昨夜のうちに卵10キロ分を割って溶いておいたもの。卵をすでに割ってかき混ぜて売っている店もあるというのに、ここではすべて手作業で手を抜かない。

四角い卵焼き器を3つ並べて火をかけ、丁寧に油を敷く。手をかざし、焼き器の温度を確認した後、お玉ですくった卵液を流し入れる。



あざやかな卵色。焼けてきたら焼き器を傾け、菜箸1本で見事に卵を裏面に返す。木蓋で軽く押しながら卵焼き器をひっくり返し、中身を取り出して、脇に置いた木板に並べ、重ねていく。無駄のない動きに見惚れてしまう。

ーーところで、白衣にネクタイで仕事されるようになったのはいつから?

「もう何十年も前、ホテルオークラに出入りしてたんです。チャリティの会に寿司を届けてましてね。ほら、ああいうところってキチンとしてなきゃいけないじゃない? スニーカーなんかじゃいけなくて。この格好はそれ以来でね。習慣みたいなもんだよね」



「茶巾の卵の薄焼きは結構難しいよね。教えてほしいという人、来ますよ」とご主人。すべてを焼きあげるのに1時間15分かかるという。なんだか、茶巾寿司を食べるのがもったいないような気持ちになった。



取材・文:森まゆみ

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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/


連載もの: 2021年05月26日更新

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