2021年03月05日更新

戸田文具店の正子さんは、旦那さんと猫たちと本当によく働いたー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.25

作家の森まゆみさんによる連載です。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回はユーモアたっぷりの正子さんと3匹の猫が迎える戸田文具店へ(編集部)



山の山の山の山寺の生まれ。15歳で東京に来た


谷根千工房が千駄木2丁目の日医大(日本医科大学)下に面した横丁の一軒家にあった頃、コクヨの400字詰め原稿用紙はじめ、仕事道具を買いに通った戸田文具店。まだあった。
何年か前、夏に通ったら見事な月下美人が咲いていた。それと外来種のオーシャンブルーという真っ青な朝顔が咲く。

「店の中は狭いし寒いから、外にいらっしゃい。いつもここで日向ぼっこしているの。
月下美人はたくさん咲かせて、かなり近所の方に株分けしたよ。朝顔のほうはもう10年も咲き続けてくれる。おかげで、店の軒のシートのほうが植物の勢いに負けて破れちゃったけど、そのまんま。私、もう82よ。頭は真っ白、背は8センチ縮んだ」

とおばさん、井上正子さん。私たちは50と30くらいで出会って、そのまま30年以上が経過した。でも正子さんの明るい笑顔と、ユーモアたっぷりな話ぶりは変わらない。

「狐だか狸だかわからないけど、まあ古いわね。あら、マスクしてると若く見てくれる? お化粧もしなくていいし、ヒゲが生えててもわからないからね」



――いつ頃からお店をやっているのですか。

「昭和44(1969)年からやってるから、もう50年になるの。その前は父の姉、伯母がここに住んで、都立向丘高校に売店を持って文房具や教科書などをおろしていました。そう、同じご町内の北川太一先生が向丘で教えていらして。私一時、定時制に入ったから、北川先生に教わったよ」

――北川太一先生は高村光太郎の研究家として知られた方ですよね。雑誌『谷根千』も、なんでもわからないことは北川先生に伺ってきました。

「数学の先生だったのよね。奥様はお裁縫の先生だった」と正子さん。

――正子さんはどこのご出身なんですか。

「私は福島のいわき市から出てきました。山の山の山の山寺の生まれで、実家は戸田といって、5人きょうだいの一番上。お正月生まれなんで、正子というの。

うちの寺のあたりは空襲はなかったけど、いわきの町のほうは真っ赤に燃えてた。私たち、お寺の墓地の高いところに上がって天皇陛下バンザーイなんて叫んでたけど。戦争が終わったのが6つの時。学校で身体検査をやったとき、測定中に、防空壕にはだかのまま逃げこんだのを覚えてる。

中学を出て15歳で、千駄木の伯母を頼って上京しました。昭和28(1953)年かな。常磐線で7時間かかったの。私は乗り物酔いするのよ。

中学校の時、修学旅行でも東京に来たんだけどね。バスに乗ったらもうダメ。6年生のときはね、いわき七浜巡りだったの。それもダメ。みんなはバスから降りて灯台を見にいったのに、そのまま一人、バスの中で休んでいたら、近くに小舟が着いてね、生きたカニをどっさり運んできたの。お小遣いをいくらもってたのかなあ、それまでお土産も買えてなかったから、有り金全部はたいて網にどっさり入れてもらった」

――カニ! それは山のお寺のご家族はさぞ喜んだでしょう。15歳で東京に来たときはどんな印象でしたか。

「上野駅に着いて、市電でここまで来た。私が来た時には、伯母はもう50過ぎていたかしら。その手伝いに来たわけなんだけど、きつい人でねえ。まあ東京で女ひとり、商売をやってきた人だから。1年半で逃げ出して、いったんは国に帰ったんだけど、よく考えたらやっぱり東京がいいやと、今度は自分で就職先を探して世田谷で酒屋さんに勤めていました。お酒飲めないんだけどね。何年いたかな」

――世田谷はどんなところでしたか?

「最高。東宝の砧撮影所の近くで、裕次郎さんいたし。撮影所に配達も行ったわよ。お塩を30キロ自転車に乗っけて。他にも有名な監督さんや俳優さんもいたんだろうけど、裕ちゃんしかわからない。かっこよかった。背が高くてね。お手伝いさんに頼んで、サインをもらったの。

結婚したのは22の時ね。それで次々子供が生まれて。子供は4人、孫は5人いるわよ。末の娘はアメリカ行っちゃって帰ってこない。何やってるんだろうねえ。でも一度だけ、娘のいるフロリダに遊びに行ったことがある。11月に行ったのに、あったかくてねえ。娘の半袖とかGパンとか借りて着てたわよ。

それで、昭和44年に伯母が亡くなって、教科書を販売する権利を持っていたのでもったいないと、私が引き継ぐことにしたの」

――旦那さんはどこの人なの?

「京都だかどこか、あっちのほう。大人しくていい人だった。3年前にどっかいっちゃったよ。上だか下だか。ずっと勤めていて、店は私がやってたから、見たことないでしょ。出てこないもん。でも経理畑の人だったから、仕入れや売上の帳簿の計算なんかはみんなやってくれた。娘も勤めていたから、長女のところの孫3人のお守りもやったわよ。子供7人ぐらい産んだような感じよ」


20年くらい前の正子さん。森まゆみさん提供

――この辺もずいぶん変わったでしょう。夏目漱石が坂の上に住んでいたときはこのあたりは牧場だったってね。

「そうなの。隣は鍛冶屋さん、町工場もあったわね。そこを上がったところは秋さんて旗本屋敷があった。そこを入った角にもおまけやさんて駄菓子屋があったんだけどね。谷根千工房のところは上田さんて、細い小ちゃなおばあさんが住んでいた。その隣が千原さんてご兄弟で野球の選手。もうみんな古い人はいなくなっちゃった。昔はよく大雨が降ると不忍通りがあふれたものよね」

――ああ、不忍池の下に遊水池を作ってからあふれなくなりましたね。買い物はどこへ行くの? 昔のほうが便利でした?

「赤札堂とか、サミットとか。でも忙しい頃は買い物も行く暇なかったわね」

わたし、突然、アレルギーでコンコン、と咳が出る。正子さんが店の奥にのど飴を探しにいってくれている間に、店の前を通った見ず知らずの人が、飴をくれた。こういうのが千駄木らしい。出てきた正子さんが、自動販売機から温かい紅茶のペットボトルをくれた。

「私も杉花粉のアレルギーなの。40になってからよ。大きな杉の根元に生まれたんだけどねえ」

今あるのを一生懸命売って、それでおしまい


――なんでそんなに働くんですか。

「私たちの世代はみんなそうよ。汐見小学校や八中の前には丸山文房具屋さんがあったけれど、そこはやめちゃったんで、最近はうちのほうに子供たちが買いに来るのね。やっぱりジャポニカの練習帳が一番売れるわね。学校では何もない罫線だけのを使えと言っているようだけど」



とにかく、狭い店内にどれだけの種類のものがあるのだろう。ノート、鉛筆、ボールペン、万年筆。筆箱、お習字の紙、筆、フエルトマット。墨汁、ファイル、アルバム、香典袋、領収書、輪ゴム、鉛筆削り、バドミントンの羽根におもちゃ。前はプラモデルがよく売れたという。お店の入り口にはアルコール消毒液が置いてある。

「よろしかったらどうぞ」

――仕入れはどうしているんですか。

「前は浅草橋に通って、大きな風呂敷包みに背負ってきたけど、今はめったに行かない。基本は今あるのを売り尽くして終わりにしようと思うの。今、行くときは御茶ノ水の病院に手が痛くて整形外科の検診に行くから、そこから総武線で浅草橋に出るのね。年に数回かな。ここは不忍通りから路地に砂埃が吹き付けるから、しょっちゅう品物を拭いているのよ。新しい注文はノートとか、おもちゃくらいかな。おもちゃなんかは、『あのオートバイ、よかったんだよね』なんて言って、おじさんも買いに来たりするよ。

あんまり古い商品があるので、前は中国の人が買いに来た。古いのくれ、古いのくれって。昔のものが高く売れるらしいのよ。勝手に引き出しを開けたりして迷惑だったけど。もうそれもコロナになってから来ないわね。売れなくなったらパッタリ売れないんだよ。文房具屋も減りました。みんなコンビニとか、百円ショップで買うからね」

――そうすると、商売は上がったり?

「ここも前より人が通らなくなった。南北線が通るようになって、日医大に行く人が千駄木で降りなくなったし。

小さい子がお母さんと一緒に来て、おもちゃを欲しいと駄々をこねたりすることもあって、そういう時は、飴でもあげて、クリスマスにしようね、とかお誕生日に買ってもらいなさいね、とか言うんだけど。最近は飴やチョコをあげると嫌がるお母さんもいるから気を使うわよ」

小学生が自動販売機をいじって、釣り銭を探している。おばさんが「お金入れなくちゃ、お釣りは出ないのよ」と声をかけると、子供たちはパッと離れた。

「お金を入れたのにお釣りが出ないんじゃ、助けに行かなくちゃいけないけど。でも大人の人でも、釣り銭ないかな、と探っていく人は結構いるわよ。

泥棒も一度やられたこともあるのよ。朝早い時間に、若い男の人が1万円出して300円ぐらいものを買いに来て、釣り銭の用意がまだだったから、2階まで取りに行ったのね。それで、1万円はもらってお釣りを返したんだけど、あとで見たらレジのところの2万円分の小銭を取られてた。いろんなことがあったね」

――他には事件がありましたか?

「日医大で殺人事件があったじゃない。暴力団の組長が大部屋に入院していて、窓の外から射撃した。一緒の部屋の人は怖かっただろうねえ」

――ああ、ありました。あと政治家の小沢一郎が入院した時とか、歌手のフランク永井が自殺未遂で入院した時も、「谷根千」の事務所に記者たちが「電話貸してください」ってね。あれは携帯が普及する前だったのね。あああああーっ、これは「谷根千」ではないですか。

「そうなのよ。砂埃がひどいからちゃんとビニールの袋に入れて。ビニ本にしちゃった。色は褪せてきたけれどね」



――ありがとうございます。うちのほうでなくなったバックナンバーはここに買いにこよう。本当によく働いた一生ですね。

「私、60代の頃は、猫のエサ代のために朝の5時から10時まで、東大の農学部にパートで清掃の仕事もしていたのよ。どうしても人が足りないというのでね。九段の消防署も通ったことがある。いない間は旦那が店を開けて店番をしてくれたし。まるまる14年やったんだよ。

今は朝、6時に根津神社でラジオ体操。まだ真っ暗よ。50、60人は来る。そのあと連れ立って散歩に行くの。90過ぎの男の人とかもいるよ。森さんもずいぶんふっくらしてきたから、朝ラジオ体操に来たらいいのに。白山や西方町から来る人も結構いるわよ。会費は年に千円」

――お店の後継ぎはいるんですか?

「まさか。今あるのを一生懸命売って、それでおしまい。片付けないでいっちゃ、子供たちに悪いから」そう、おばさんは言った。

「この前もここでひっくり返ってほおを打った。見た目はわからないけど、結構痛い。でもお医者様へ行ったら、年取ったんだから気楽に暮らしなさい、何かあったらくればいいから、というのよ」

――でも、個人的にはそんなに事件もない、お幸せな一生ですね。

「でしょ、だって名前が正子だもの。正しい人生よ。こんな簡単な名前で横と縦で書けるから、ボケても自分の名前くらいは書けると思うの。

今、家族は猫のくろちゃんと、ムンクとあと一匹はももちゃん。一時期は13匹もいたの。拾ってきた猫はいない。みんな誰かが置いてっちゃうか、入ってきて自然とうちに居着いた猫」

2月になって寒くなると、オーシャンブルーの朝顔の葉が落ちる。3月になるとまた芽が出て、夏には長期間、きれいな真っ青な花が咲く。

「朝顔なんてヤワなもんじゃないの。幹が私の腕くらいの太さがある。あなたもベランダで挿し木で育てるといいよ」そう言って、正子さんは笑った。




取材・文:森まゆみ

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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/
連載もの: 2021年03月05日更新

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