2019年11月18日更新

世田谷の行列ができる精肉店「三河屋」。4回転職したバングラデシュの若者がお店を継ぐまで

コンビニエンスストアに飲食店、家電量販店に至るまで、街中で働く外国人を見かけることはもう日常だ。なかには、お店を継ぐ人もいる。

世田谷で人気の精肉店「三河屋」を経営するのは、ジャキール・ホセインさん。彼はバングラディシュから来日し、4つの仕事を転々としたあと三河屋に職を得て、やがてお店を継ぐことになった。

ジャキールさんは精肉店の仕事のどこに魅力を感じたのか? 三河屋を継ぐことになった経緯とは? お店を訪れ話を聞いた。

家族は20人! 貧しさから抜け出すため、バングラデシュから日本へ


東急世田谷線の駅「松陰神社前」。その名の通り吉田松蔭が祀られた松陰神社を中心に、近年は若い経営者が開くサードウェーブ的なお店が集まる場所としても注目されている。

そんな町に精肉店「三河屋」はある。お客さんがガラスケースの中を指差して必要な量をいうと、お店の人が肉を測っては薄い紙で包んでくれる懐かしいお肉屋さんだ。

「ママの口ぐせ、お肉は三河屋」。そんなキャッチコピーも古きよき昭和の雰囲気そのまま。だが、店頭に立つのは、来日31年のバングラデシュ人、ジャキール ホセインさん(49歳 ※冒頭写真)である。

ジャキールさんの故郷であるバングラデシュは、インド、ミャンマーに接する国。人口密度が高いことでも知られ、日本の4分の1ほどの面積に1億6,365万人が暮らす(2018年1月,バングラデシュ統計局)。

20世紀に二度も経験した独立戦争によって国力が弱まったバングラデシュは、労働力を積極的に国外に送り出す政策を進めてきた。

ジャキールさんの家族は父の弟の家族との総勢20人ほどで暮らしていた。働き手は父と叔父の2人。暮らしは貧しかった。ジャキールさんはほとんど遊ぶこともなく、子供のころから日が昇る前から家の仕事を手伝う日々を送り、小学校卒業後は進学も叶わなかった。

「こんなところにいてもどうしようもない」と、17歳のときジャキールさんも出稼ぎに出ることを考えた。周囲にはサウジアラビアなどビザの取得が簡単な国に出稼ぎに行く人も多かった。日本はビザの取得が厳しいが、給料が格段に高い。貧しいジャキールさんの一家は、ブローカーに支払う渡航費を親戚から借りたお金で賄った。

よりよい給料を求めて仕事を転々。勤務態度はいたって真面目


ジャキールさんは、はじめから肉屋で働いたわけではない。

「最初は千葉の田舎にあった工場。機械で金属に穴を開け続ける仕事だったんだけど、金属片が体に当たるのがキツくて3日で辞めましたね。次は東京の大井町で部品にペンキを塗る仕事。それから親戚が働いていた肉屋さんで働くことになった」

その肉屋というのが、当時港区白金に本店があった三河屋だ。世田谷の下北沢と川崎市にも店舗があったというから、それなりの規模の精肉店だったのだろう。

だが、ジャキールさんは三河屋も一度辞めている。

「給料が高い大工の仕事をやっちゃったんです」

親戚からの借金や家族への仕送り。出稼ぎ労働者としては給料の高さがたいせつだった。ところが大工の仕事を1年経験したあと、三河屋に舞い戻る。

一度辞めたにもかかわらず、ふたたび受け入れられたのは、素直で真面目なジャキールさんの人柄あってのものだろう。だが、社長が理解ある人格者だったことも大きい。

「店にはパキスタン人やバングラデシュ人も何人か働いていたんだけど、私がいちばん年下だったからかな? 社長がすごくかわいがってくれたんです」

三河屋の社長は、大工を辞めて困っていたジャキールさんに、小さな条件を付けて下北沢店に雇い入れるだけでなく、会社の寮もあてがった。お店では年齢の近いアルバイトの高校生たちと一緒に食事に出かけるほど受け入れられ、お客さんにも積極的に対応したおかげで日本語も上達したという。

ジャキールさんを変えた三河屋社長の言葉


社長はジャキールさんに優しくしていただけではない。ときには厳しく叱ることもあった。

「なんであいさつしないんだ!」

社長がジャキールさん向かって大きな声を出した。実はジャキールさんは、社長が後ろにいたことに気づいておらず、気づけば挨拶したはずだが、社長のほうは気づかなかったことを気の緩みだと捉えたようだ。

社長は叱るだけでなく、何がいけなかったのか、言葉を尽くしてジャキールさんに説明した。

「そばに誰がいるか、何があるか、仕事中はいつも周りを見渡して気を配らないとダメだ。もし上から何かが落ちてきたら、扱っている肉が売り物にならなくなる。それくらいならまだいい。でも、『気づかなかった』ではすまないことが、世の中にはあるんだぞ」

精肉店は何人ものスタッフが鋭い刃物を使う危険な職場でもある。

ろくに日本語もわからないまま来日したジャキールさんにとって、こんな基本のアドバイスが重要だった。三河屋以外の職場では、叱られることはあっても、それがなぜなのか? までは説明してくれなかった。

それからジャキールさんは、ふられた作業に専念するだけでなく、周囲の動きを把握しようと努めた。

注意深く周りを観察すると、それまで気づかなかったことが見えてきた。

その中でジャキールさんが注目したのは、肉から骨を抜く作業。これは専門の職人だけが担当するもので、高度なスキルを求められる作業だったが、彼は自分の仕事のかたわら、骨抜きの作業を見よう見まねで習得する。

それを披露して周囲を驚かせると、骨抜きの仕事も担当することになり、長時間はたらいたぶん、給料も増えた。

だが、得たものはお金だけではない。「自分にもやれることがある」という自信を得たのが大きかった。ジャキールさんはこの仕事に、やりがいを見出したのだ。

ジャキールさんの仕送りによって、兄弟姉妹は上の学校に通えるようになり、のちに商売をはじめた。妹の結婚資金も賄うことができた。

彼が初めてバングラデシュに里帰りしたのは、来日から10年がたった1998年。日本人との結婚により正規のビザが取得できたため、晴れて再入国が可能になったのだ。

友人たちに借金して独立。三河屋の名を引き継いで店主になる


ジャキールさんが現在の三河屋を経営するチャンスが巡ってきたのは、かわいがってくれた社長が亡くって数年後のこと。

経営を引き継いだ社長の家族が会社をやめると決め、そのころすでに妻と子供のいたジャキールさんは、新しい職場を探すよりも三河屋を引き継ぐ形で独立できないかと考えた。

「お前ならできるかもしれないな」と三河屋の旧経営陣とは調整がついたが、肝心の資金がなかった。

このときジャキールさんが頼ったのは日本で働く同郷の友人たち。頼みこんで数百万円のお金を工面し、無事に川崎市の三河屋武蔵新城店を、店名もそのままに引き継ぐことができた。2005年、35歳のとき。日本に来て17年がたっていた。

武蔵新城のお客さんは変わらず三河屋で肉を購入し、ジャキールさんも肉の目利きのスキルを身に付けた。そんなころ、出入りしていた冷蔵庫の業者がジャキールさんを見込んで声をかけた。

「世田谷の松陰神社にあるお肉屋さんが高齢を理由にお店を辞めてしまうんだけど、やってみない?」

武蔵新城のお店を引き継いでたった1年。まだ友人たちに借りたお金を返しきれていない。「まあ、見るだけ」のつもりで松陰神社に下見に行ってみると、武蔵新城とは客層が違う。武蔵新城のお客さんは値段重視。ところが世田谷はそうではない。多少高くてもいいものにはお金を出すお客さんが多かったのだ。

「やってみたい」。そう思ったジャキールさんは、旧三河屋のときからずっと相談相手になってくれていた税理士さんとも話した。幸運なことに今度は銀行から融資を受ける算段が整い、2006年に松陰神社に2つ目の三河屋がオープン。

そのまた1年後には、大家さんから2階を借りないかと言われて、インドカレーのお店「ジャキール」を開店する。

インドカレー屋である「ジャキール」の名物料理のひとつが「ローストビーフ丼」。これは話題となり、度々テレビ番組でも取り上げられている。

お店には「学び」も継承されている


精肉店の商売も様々な工夫を凝らしている。町の肉屋さんの定番惣菜、コロッケなどの揚げ物の販売はやめることにした。その理由をジャキールさんは次のように話す。

「健康志向で揚げ物を食べることが減ったんですね。売れなくて夕方には半額にしていたけど、お店のイメージが悪くなっちゃうから」

日本の食生活の変化をうかがわせるコメントだ。

代わって三河屋の看板商品となっているのは、1本150円の焼き鳥である。ジャキールさんが店頭で毎日焼き、平日でも500本ほど売れることもあるとか。

「最初はたいへんだなと思ったんだけど、固い頭で考えちゃうとダメ。やってみるか! と思って始めたら、行列ができるまでになったんです。少し遠くから買いに来てくれる常連のお客さんもいます」

スーパーで売られる焼き鳥は、工場から仕入れてお店では焼くだけというものが多い。三河屋の焼き鳥はお店で肉を切って、1本1本串に刺しているから圧倒的に手間がかかる。

しかし、それがおいしさの秘密で、「他に誰もやっていないから買いに来てくれるお客さんがいる」とジャキールさんは言う。

「こういうお店で肉を買う人が減っちゃったけどね。スーパーだけじゃなくて、最近はコストコで大量にお肉を買う人もいる。商店街も夕方になると暗い。でも、売れないからって諦めたら終わりでしょう」

町の小さなお店や飲食店を繁盛させるのは難しい時代だが、焼き鳥にせよ、ローストビーフ丼にせよ、店を続けるには、自分にしかできないことをやっていかなければならない。それがジャキールさんの信条だ。

ジャキールさんが来日したころと比べるとバングラデシュは豊かになった。だが、今も日本に来て働きたいという人は多い。インドカレー店「ジャキール」でも若いバングラデシュ人が働いている。

ジャキールさんは若いスタッフにどう接しているのだろう? 

「締めるところは締めるのがたいせつです。それに最初は苦労したほうがいい。周りがなんでもやってあげると、そのときはいいかもしれないけれど、それは会社にも本人にもマイナスだと思います。怒るときは怒る、優しくするときは優しくする。当たり前のことですけど、それを続けられるかどうかじゃないですかね」

三河屋の社長に叱られた経験が、今のジャキールさんの経営につながっているのは間違いない。お店が次世代につながるためには、「学び」がつながることも必要なのでは? と思える話だった。

三河屋 世田谷店
東京都世田谷区世田谷4-1-10 中ビル 1F

記事・写真:野崎さおり
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