三代達也さんは、19才のときに交通事故に遭い頸椎を損傷し、車椅子生活に。「自分は死んだ」とまで思いつめる日々を送っていましたが、28才のときに一念発起。世界一周に挑戦し、見事達成。その旅での出来事や感じたことを書籍『No Rain,No Rainbow 一度死んだ僕の、車いす世界一周』にまとめました。
現在は講演会などを通じて、障害を持つ多くの人に勇気を与えている三代さん。『世界を旅する中で、はたらくことへの考え方も変わった』と言います。彼の仕事観に影響を与えた旅中での出来事とは?
18歳で車椅子生活に。世界一周のきっかけはハワイでの「人生を変える出来事」
筆者は以前、三代さんに取材したことがある(
『“出会い”がいつも僕を救ってくれた。車椅子トラベラー・三代達也が世界一周をした理由』)。この記事では、そのときの話も引用しながら、追加取材で聞いた三代さんの仕事観に迫ってみたいと思う。(引用部分は太字)
18歳で事故に遭うまで、三代さんは健常者だった。
アルバイトの帰り道でバイクを運転中、車と正面衝突した。病室で目をさました三代さんは自分の体の状態を知り、大きなショックを受けた。
「ふくらはぎが千切れかけていたり、目の中でコンタクトがバリバリに破れていたり。全身ひどい怪我でしたが、最もショックを受けたのは、体をほとんど動かせないことでした。僕は頸髄損傷という、四肢麻痺が残る障害を背負うことになったんです。
リハビリで若干の運動機能は回復しましたが、怪我をする前のようには戻れず。『こんな体で、これからどうやって生きていけばいいんだろう?』と、将来への不安に押し潰されそうでした」
“これからどうやって生きていけばいいんだろう?”
三代さんは深く絶望し、リハビリ中も一喜一憂する日々が続いた。そんな中、三代さんの支えになったのは、彼がのちに「師匠」と呼ぶことになる男性との出会いだった。
「僕と同じ病室に、同じ障害を持つ人がいました。その人は食事の時間、僕が本当は自力で食堂に行けるのに、怠けて看護師さんに食事を持ってきてもらっているのを見て、『お前甘ったれてんなよ』と繰り返し言うんです」
最初は「そんなの絶対無理」と思っていた。ところが師匠があまりにしつこいので、一体どんな人なんだろう? と思い、一度ちゃんと話してみると、意外に気が合うことがわかった。親子ほど年の離れた2人は、病室でいろいろな話をするようになった。
師匠は自力で食堂に行くことを促すだけでなく、さまざまな「無理難題」を吹っかけた。
「親に頼らずに、1人で電車に乗って実家まで帰ってみたら?」だの、
「退所したら実家に戻らないで、東京で1人暮らしをしてみたら?」だの。
三代さんは師匠に背中を押され、次第にその「無理難題」にチャレンジするようになる。1つずつクリアするにつれ、着実に自信をつけていった。
「最初はそんな無茶な…と思ったのですが、背中を押されるがままにやってみると、本当に電車で1人で実家に帰れたし、退所後は東京で1人暮らしもできたんです。『自分にはできっこない』と思い込んでいたことは、チャレンジすればできることなんだと気づかされました」
リハビリ施設を退所し東京で働き始めた三代さんはある日、会社の同僚との会話をきっかけに、1人でハワイ旅行に行くことを思い立つ。初めての海外旅行だ。そこでは彼がのちに「人生を変える出来事」と呼ぶことになる出会いが待っていた。
「通りすがりのバーに入ってみると、外国人の若いお兄ちゃんが寄ってきて、『何しにきたの?』『なんで1人なの?』『なんで車椅子なの?』ってガンガン聞いてくるんです(笑)。日本では考えられないですよね。
そのあとは『ミヨも踊りなよ!』と誘われて、みんなと音楽に合わせて体を揺らしながら『イェーイ!』と盛り上がりました」
障害者として扱うことなく、フラットに接してくれたハワイの人たち。「ここでは人の心もバリアフリーなんだ!」と感銘を受けた。その日から三代さんの頭には、「旅」というキーワードが常に浮かぶようになる。帰国後ほどなく新たな渡航の計画を立て、ロサンゼルスでの長期滞在やオーストラリアでのワーキングホリデーに挑戦し、海外生活を楽しんだ。
帰国後、会社勤めを再開して3年がたった頃、三代さんは、「今度は自分のためだけでなく、人のためにもなる旅がしたい」と考え始めた。自分が体験したバリアフリー情報をSNSで発信しながら旅をすれば、きっと自分と同じような障害者の人の役に立つのではないだろうか?
世界一周を決意したのは28才の春。安定のサラリーマン生活を捨て、1人世界へ飛び出した。
バリアはあるけど愛がある。車椅子でも世界中に行けたワケ。
旅中での出来事は、書籍に詳しく書かれている。今回はその中でも特に筆者の印象に残った内容を紹介しよう。(書籍の引用部分は太字)
ヨーロッパから始まった世界一周。旅の序盤でローマからフィレンツェへ向かう道すがら、なんと車椅子が突然動かなくなってしまった。
足元を見ると、車椅子の右側前輪がポロンっと、道に転がっていた。
「…これは、夢?一歩も動けない…どうしよう…??」
パニック状態に陥り焦る中、声が聞こえた。
「Trouble?」
あまりの事態に周りがまったく見えていなかった僕が、ハッと我に返ると、1組のファミリーが心配そうにこちらを見ていた。
彼らは英語が苦手なイタリア人一家で、僕は取れた前輪を指差して現状をなんとか説明する。一通り説明が終わるとパパが、「どれ、ちょっと見せてみろ」と車椅子を触り始めた。
「ある程度のパーツは残ってるけど、一つだけネジがないな。そしてそれを固定するための六角レンチがあれば…」
それからイタリア人ファミリー総出で、車椅子修復作戦開始!
なんと通りすがりの家族が、困った様子の三代さんに声をかけ、車椅子の前輪を取り付けようとしてくれたのだ。
パパはママに工具を探すように指示し、子どもたちは近くにネジが落ちていないか探し始めた。程なく「ウォー!!」という彼らの歓声とともにネジは発見され、ママが連れてきたスポーツ用品店のお兄さんとパパが一緒にそのネジを締め、修理が完了した。
しっかりと車椅子が動くことを確認し、僕が大きい声で、
「Grazie(ありがとう)!!!!!!!!!!!!!!!!!」
と言うと、みんな笑顔で歓声をあげてハイタッチ! あっという間にそれぞれの日常に戻っていった。ほんの数分間の奇跡だった。
その後しばらく、感謝の気持ちで三代さんの涙は止まらなかった。
日本の都心部に比べると、海外はバリアフリーが進んでいない場所が多い。「でも、不思議と困ることは少なかったんです」と三代さんは語る。世界中の人たちの”無償の愛”が、三代さんの足を止めることなく、前へと進ませた。
”無償の愛”で助けてくれた人たちの共通点とは?
「世界一周中は、たくさんの人が僕のことを助けてくれました。なんの利益にもならないのに、善意で手を差し伸べてくれたんです」。三代さんはそんな出会いを重ねるうちに、あることに気づいたと言う。
「助けてくれる人は、その人と一緒にいるグループの中でも慕われている雰囲気があって、幸せそうな人がほとんどでした」
先ほどのイタリア人家族のパパもそう。助けてくれた人は、一緒にいる家族に好かれていたり、友人グループの中で人気がありそうな空気を醸し出している人が多かった。
三代さんは、「人に役立つことをすることによって、巡りめぐってその人の人生にいいことが起こる。だから助けてくれた人たちはみんな幸せそうなんだ」と考えた。そして、「“無償の愛”で手を差し伸べてくれた人たちのように、見返りを求めるのでは無く、自分の気持ちに素直にやるべきことをすれば、幸せな人生を送ることができるはず」と思うようになった。
どんな仕事でも仕事である以上、“無償”で行うことは難しい。でも、「無償でもやってみたい」と思える要素を少しでも含む仕事を選択できれば、モチベーションを保つことに繋がるはずだ。
三代さんはこんな話もしてくれた。
「会社員をしていたときは、『この仕事は何のため?』ということはあまり考えていませんでした。でも世界一周から帰って来てからは強く意識するようになりました。この変化によって、仕事に対するモチベーションは180度変わりましたね」
旅先で助け合いの関係をなんども経験してきたからこそ、人の役に立つということをはっきりと意識するようになったのかもしれない。
そんな三代さんは今、世界一周の旅で得た学びを伝えるべくさまざまな活動をしている。旅の経験を伝える講演会や執筆活動のほか、HISスペシャルサポーターとしてバリアフリーツアーの監修なども手掛ける。世界一周の旅をきっかけに、仕事内容もはたらき方も大きく広がっていった。
障害の有無にかかわらず、旅に出ればそこはわからないことだらけ。人の助けがどうしても必要な場面もあるだろう。そんな環境だからこそ、1つ1つの出会いが日常よりも大きな意味を持つ。
仕事を抱える社会人にとって世界一周の旅はハードルが高いが、ふらっと海外、あるいは国内の見知らぬ場所に出かけて単純に出会いを楽しんでみるだけでも、自分の世界を広げることはできるかもしれない。三代さんの物語を読んで、そんな気持ちになる人は多いのではないだろうか。
■『No Rain,No Rainbow 一度死んだ僕の、車いす世界一周』(光文社)
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(取材、文:一本麻衣)
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