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2019年10月02日更新
創業290年。畳屋クマイ商店の仕事には職人の意地があるー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.17
作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に"ずーっとあるお店"にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回は創業290年の畳屋さん「クマイ商店」へ。(編集部)
かつてはお寺と遊郭がお得意様。いまは藝大生も
畳のクマイ商店は、谷中で創業290年目。道を挟んで実際の町名は上野桜木2丁目。東叡山寛永寺出入りの畳屋さんだ。実は30年ほど前に、先代の熊井正孝さんに聞き書きした記録がある。
「(創業については)はっきりしたことはわかりません。うちのお墓には『谷中中門前八軒町、善光寺連中』とあります。これは谷中に最初にできた町で、その頃町家は8軒しかなく、言問通りを善光寺坂というように、その上にあった善光寺の寺内ということです。屋号を山田屋松五郎といい、各地から出てくる奉公人を寛永寺に世話するようなこともしていました。その頃、寛永寺は将軍様の菩提寺でもあり、各大名が装束を改める塔頭が30以上あり、それぞれが500畳くらいの畳数ありましたので、まあ、1万5000畳ほどの仕事をさせていただいたらしいのでございます」
その時にお話を聞いたお店も、作業場は足立区の梅島に移り、現在はきれいなショールームになっている。
おかみさんの千代子さん。
「父は森さんに話を聞いていただいて、とてもうれしかったらしいです。私が嫁いできたのは1975(昭和50)年です。おばあちゃんの方が先に亡くなって、おじいちゃんは94まで元気でした」
――本当にお詳しかったですねえ。こんなことも言っておられました。
「明治以降は寛永寺も小さくなってしまいましたが、それでも畳替えは毎年一度。上野駅から東北へ鉄道が伸びたので、その煤煙が畳に降り積もり、畳替えをしてからでないと、法要が営めなかったそうなんです。明治以降、町方では根津に遊郭ができまして、いいお得意でした。1889(明治21)年に深川の洲崎に移転させられるんですが、洲崎までも畳替えに行ったということです」
社長の熊井芳孝さん。
「父の頃までは東叡山出入りの職人たちで、東叡会というのがあって、一山のご葬儀とか、不忍池弁天堂の巳成金(みなるかね ※9月の巳の日におこなわれる不忍池弁天堂の大祭)とか、暮れの除夜の鐘の時は、職方衆がお手伝いに行ってましたが、何か記念の行事があったりすると、シルクの半纏(はんてん)をお仕着せでくださったものでした。当時でも25万円くらいしたらしいです。音頭をとるはずの工務店の棟梁も廃業され、今はありません。残っているのは畳屋のうちと塗装屋さん、経師(きょうじ)屋さんくらいですね。
それでもおかげさまで、谷中あたりの社寺のうち、50件ほどは、熊井で仕事をさせていただいています。それと藝大もうちのお得意さんで、邦楽科とか日本画科はお教室に畳もありますし、寮の畳もさせていただいていました」
千代子さんも話す。
「自分の彫刻をのせる台にしたい、なんていう藝大生もたまに来ますよ。面白かったのは、藝大の卒業制作で、畳のい草の表情を木材に細かく彫った作品でね、銀座のギャラリーで展覧会をやるので、木の畳の周りに本物の畳を敷きたいというオーダーを受けて、お手伝いしたこともあります。今はその子も藝大を出て、彫刻家として頑張ってやっていますよ。長くやっていると、やっぱりいろんなことがあるから、楽しいですよね」
――社長は長男ではないそうですね。
「うちは兄と姉がいたのですが、兄は後を継ぐつもりがなく、藝大を出て建築家になりました。それで、私が継ぐことになって。
父は根っからの職人気質でしたが、ちょっと変わり者のところがあって、書類や経理にも強く、1961(昭和36)年くらいには早々と会社組織にしました。公共建築の畳を入札で取るのも得意でしたね。そういった入札には資格が必要で、代書屋に頼むと15万くらいかかるところを、書類も自分でこしらえて、朝4時半くらいに起きて風呂敷に包んで、有楽町の役所まで持って行ったりしていました。
昭和30~40年代には、高島平団地や光が丘団地の畳なんて随分入れたもんなんです。1棟で団地サイズですが、1ロット請け負うと2000畳くらいですから、あれは大きな仕事でしたね。競争入札で、1年に大きな仕事が2回くらい回ってきたでしょうか。ああいうのもゼネコンが受けると、私たちは下請けになり、そこで何割かマージンを取られてしまいますから、お願いして、畳、襖(ふすま)なんかは分離発注にしてもらったんです」
――へえ、面白い話です。畳屋さんも少なくなっていますか。
「そうですね。以前は三崎坂の上のほうにも1軒ありましたが、そちらはやめてしまいましたね。真島町のほうへ行ったところには1軒、お父さんの代から続いているお店があります。
当時に比べると、うちの職人も少なくなりました。畳以外にも襖や障子、クロス張りからカーペットまで、内装もしますし、新築の家を建てたり、リフォームなどもやっています。
だいたい日本人の生活が変わりましたからね。高島平団地だって、6畳・6畳・4畳半で16枚半、仕事があったわけです。それが憧れの文化住宅でした。今、マンションでも和室はせいぜい1室、あとはカーペットとかフローリングになっちゃって。
そして大きなマンションなどは、ゼネコンが今風の畳をセッティングしてしまうから、我々の出番がない。寛永寺さんでも昔は地元の石屋さんが仕切ってましたが、最近は大手が入り競合するようになっています」
畳の縁(へり)の見本。縁は、化学繊維、木綿、麻などが用いられるが、こちらは絹縁で床の間の畳などに使われる。絹は表と裏と両方用いることができ、それぞれ表情が変わる。
「これが熊井の仕事か、たいしたことないな」とは絶対、言われたくない
――お父様は谷中斎場で、関東大震災のすぐ後に殺された大杉栄と伊藤野枝の葬式をした時のことも覚えておられたし、桜木町に住んでいた川端康成さんの家の畳も替えたと言っておられました。桜木町も変わりましたか。
「古い方は2割くらいでしょうね。お屋敷を相続しないで息子さんが売っちゃうと、あとは細分化されて小さなお家が建ちますね」
――元気で明るいおかみさんはどうやって見つけたんですか。
「紹介してくれる人がいまして。彼女は葛飾の立石出身で、実家は衣料品屋なんです。だいたい、畳屋には嫁が来ませんから。職人が7、8人いて、おさんどんもしなければならないし。舅、姑はいるし。商売の手伝いもしないといけないし。でも世話好きがいましてね。車を売る人が、入谷の酒問屋の山六さんと相談して、あそこの畳屋の次男坊に誰かくっつけちゃえというのでね」
――本当にいいコンビで、仲良くて羨ましい。跡継ぎの息子さんもいるし。畳そのものも変わったのですか。
「父にお話を聞いていただいた頃は店先で、太い縫い針で、父が畳の芯に、畳表を縫い付けていたでしょう。そういう時代は終わりました」
――お父様からは、こんな話を聞きました。
「職人はまず畳床を、藁を積み重ね、糸を繰りながら縫い固め、かかとで踏み固めて作ります。畳床を1枚作るのにベテランの職人が2日かかります。これは寒中、じゅばん一つでも脂汗をかくような激しい労働なんです。畳替えは夏に近づくと多いので、春までには畳床を作ってストックします。
また畳表を貼って縁をつける仕事がベテランでも1日2枚が限界です。
畳床の藁はどこでも手に入りますが、畳表に使うい草は広島の特産でした。7月15日のお盆の頃に刈り取り、干して織り上げたものを船で江戸湊まで運び、日本橋に伴伝(ばんでん)と西川という二つ大きな問屋があって、そこに買い付けに行ったものなんです。今は熊本産が多いですね」
――これもまた30年で変わったのでしょうか。
「今は機械化された部分も多いですね。省力化され、重労働ではなくなったのはいいことです。今は畳の芯も、木質繊維や発砲スチロールなどを用いた建材床と呼ばれるものが増えました。でも、やっぱり藁の畳床にはかないません。寝心地も座り心地も違います。
畳表も我々はい草のものをおすすめしたいが、機械でこより状にした和紙に樹脂コーティングをしたものや、ポリプロピレンの樹脂素材を用いたものなど、色褪せしない畳もあります。色や柄も多用で、いわば“敷物的”な畳ですね。でもやっぱり、新しい畳の自然の色や匂い、色褪せた時の風合いもまったく違いますよ。
今は建設業も外国人の人が多く入り、ベトナムとか、フィリピンの人も多いですが、やっぱり仕事の精度が日本人とは違いますね。
昔の家は施主が大工と丁々発止、相談しながら作ったものです。大工は簡単な平面図さえあれば、家が建てられる。板金屋の仕事なんかものすごく複雑なんですよ。今は雨樋も銅ではなく、ガルバニウムという錆びにくい鉄ですが、そうした組み合わせ方とか、銅板葺きの戸袋とか、あれこそ日本の職人の究極の技なんですが、そんなものを頼む人は今いません。
たまに坪400〜500万円なんて豪勢な仕事が入ることがあり、それは技術を磨くチャンスなんです。注文産業ですから、普通の仕事だけやっていたのでは、その技量で終わってしまう。やはりレベルの高い仕事をやればやるほど、腕はあがっていくわけです。いい仕事があれば、これでもか、これでもか、と自分たちが持っているものを入れ込むのが職人ですから。でも、そんなふうに職人が腕を磨ける機会は本当に少なくなってしまいましたね。
職人は他人の仕事になかなか感心しません。でも、自分のした仕事を何年か後に別の人がメンテナンスするようなことがある。その時に「これが熊井の仕事か、たいしたことないな」とは絶対、言われたくない。人に負けたら悔しい。その意地で仕事をしているようなものです。
職人の世界がなくなってきちゃって、困った時代です。そのなかで、我々はどうやって畳の世界でやっていくか。うちは寺町に近く立地がいいので、まだなんとか持ちこたえています。本来の畳をきちんと作っていける店ということで、これからもやっていきたいと思っています」
フローリングの上で昼寝をしたいと、ゴザを買った。畳表に渋い美しい色の縁を選んでつけてもらって、8千円。申し訳ないような値段だった。
取材・文:森まゆみ
当連載のアーカイブーSince 2018ー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.1ー創業67年。町中華の「オトメ」はだれでもふつうに扱ってくれるー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.2ーモンデール元駐日米大使も通った根津のたいやき
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.4ー若い二人が引き継いだ「BAR 天井桟敷の人々」には悲喜こもごもの物語がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.5ー中華料理「BIKA(美華)」のご主人がポツリと話す根津宮永町の昔話
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。
谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→
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2019年10月02日更新
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