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2019年05月13日更新
谷中銀座の貝屋さん「丸初福島商店」は素通りできないご近所の店ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.9
作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に"ずっとあるお店"にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回は谷中銀座で貝類・海老・川魚を商う福島商店さんを訪れました。(編集部)
谷中銀座商店街の重鎮、貝屋のご主人
谷中銀座のよみせ通りからの入り口近い左側、ここに大きな間口の貝屋さんがある。魚屋ではなく、主に貝だけを商う。カキ、バイ貝、みる貝、赤貝、とり貝、ホタテ、ホヤ、ナマコ、晒しクジラ、稚鮎……そんな変わったものも売っている。貝のめっぽう好きな私は前、この辺に住んでいた頃はよく買っていた。というか、子供の頃から知っているのだ。
母が買い物をする間、木樽の中にドジョウがいて、水の中を上がったり、下がったりするのが面白くて、飽きずに見ていた。そのドジョウを割いて、ホイル皿のごぼうの上に乗せたものを買ってきて、家で柳川をする日は嬉しかった。
主人は福島佳行(ただゆき)さん。若主人の正行さんは現在、谷中銀座商店街の会長を務める。取材は基本お断り、今日は森さんだからいいけど、ご本人の写真は勘弁して、という。
「うちの父、福島正次は浅草の生まれだね。明治45年=大正元(1912)年の生まれで、浅草の田中小学校卒業。去年13回忌をやったからね、93まで長生きしてくれたんだ。父は着物が好きで、息子の私が言うのもなんだけど、粋な人だったな。
その父、私にとっては祖父にあたる初太郎という人が、初太郎の初の字をとって浅草で丸初福島商店を始めて、父もそこで働いてたんだね。兄があとを継いだんで、次男の父は本郷あたりを探して、今のよみせ通りにある宝家さん(大阪寿司)の場所で、昭和9(1934)年に独立したの。もう85年になるのかな」
——へえ、その時から貝屋さんなんですね。
「そう。ところが、親父が戦争に取られちゃってさ。行ったのはハルマヘラ。南方の島で、激戦地だったらしいよ。爆撃で左肩を負傷し、マラリアにもかかって帰ってきました。5人の子供を抱えて、親父もお袋もよく頑張ってくれました」
——それで戦後、こちら(谷中銀座)へ移ったんだ。
「そうです。戦前は谷中幼稚園の横丁が安八百屋通りといって、大変栄えた。夫婦でよく働く安八百屋があって。安八百屋時代からあるのは、前のスガイ(生花店)さんもそうかな、魚亀さんはやめちゃったけどね。あとは、越後屋酒店さん、鈴木の肉屋さん、魚屋の富じ家さん、後藤の飴屋さん……、こういうことは、陶器屋の小野さんが詳しいんだ。
それが戦後、戦地から帰ったら、宝家さんのところは他の人が入ってた。しょうがないな、というのでこっちに引っ越したわけ。この辺、旧・谷中初音町4丁目は焼夷弾が落ちて焼けちゃって、建物の土台だけ残っていた。
僕は昭和13(1938)年の生まれ。千駄木小学校の1年の時に空襲が激しくなっちゃって、授業してるとすぐにサイレンがなって、コッペパンをもらって帰ってきた。教室で勉強したという覚えがないね。お袋の実家のあった埼玉県の毛呂山に縁故疎開して、大谷木小学校に通いました。塩原に学童疎開で行っていた姉たちは、食べるものがなかったらしいよ。
埼玉の毛呂山から谷中に戻った頃もよく覚えています。焼け跡にペンペン草が生えて、トンボが飛んでた。南側の奥のほうはあまりやられてなくて、古い家が残ってたね。それにしても、母の実家の人たちには、本当にお世話になりました。
その頃、この道はただの横丁、舗装もされていない砂利道で、雨が降るとドロドロだったよ。うちの剥いたアサリやハマグリの貝を敷き詰めたりしてね。日暮里駅につながる道は階段でなく、急な坂になってた」
出発は焼け跡のバラックから。「谷中銀座」80年の歩み
——谷中銀座じゃなくて、田舎銀座、道がドロドロでおしるこ銀座なんて呼ばれてたそうですね。
「誰かが決めたんじゃなくて、自然発生的に商店街になっちゃったんだね。それぞれが焼け跡にバラックを建てた。ベニヤ板貼って、レオパレスも真っ青な、厚紙にコールタールみたいなものを塗ったような屋根をのっけてね。そんなのを仕切ったのは玉木屋の乾物屋のおじさんだね。木村惣三郎といったかな。あのマーケットのようなところは、今も木村さんのご子孫が持ってるんですよ」
——へえ、さすがによくご存じで。
「昭和23(1948)年に『谷中銀座協進会』というのができたんだ。そのころの会長が例の木村惣三郎、そのあと、谷中銀座商店街振興組合になって初代が『魚亀』の芹沢幸太郎、16年も理事長を務めました。二代目がうちの父の福島正次、三代が『マロンドール』の宮下瑞男、四代が『魚亀』の若旦那の芹沢幸雄、五代はタバコ屋の『中島商店』、六代が『はつねや』の堀切正明、七代目が『武蔵屋豆腐屋』の杉田浩、そのあとがうちの倅なんだ。福島正行、親父と俺の名前から一字ずつとってね……」
とたちどころに話してくれた。
向かって左は芹沢幸太郎さん、右は佳行さんの父・正次さん
「谷中銀座も、戦後はなんでも売れたんだよね。昭和30年代はよかったね。小学校4年生くらいから店を手伝ってましたよ。毎日、アサリを学校に行く前に剥いていたよ。そのうち千代田線が開通して、『サミット』など大型店舗の出店で客が減って苦しい時期もありました。最近は『谷根千』ってことで人気が出た。でも、たいして売れないね。店がどんどん変わるから覚えきれない。ただ、やめてもあとはすぐ埋まる。谷中銀座も人気で、地価も賃料も上がってきた。まゆみさんが『夕焼けだんだん』なんて、立派な名前をつけてくれたから(笑)」
——いやあ、あれは『谷根千』を始めてすぐぐらいかな、1985年頃。ネーミングの募集があったから、買い物ついでに書いて入れたの。そしたら、「なんだ、森さんか」と言われたけど、それでも1万円いただいて、あの頃貧乏だったから助かりました。ところで、お父さんは厳しい方でしたか。
「もう厳しいなんてもんじゃないよ。軍隊上がりだから。でも戦争で見聞きしたことは一切喋らなかったね。まあ、父も母もよく働いたよ」
——私が子供の頃からいらっしゃるきれいなお姉さんは。
「姉のこと? 平成17年に亡くなりました。70歳でね。長女として親の手伝いから私たちの面倒までみてくれて、できた人だったね。うちの母ちゃんも長いんだけどね。宮城県の栗駒から来たの。高校出てすぐうちで働き始めたんだ。昭和41(1966)年に結婚したの」
——へえ、働きものの奥さんもらえてお幸せですね。でも、貝だけの店というのは珍しいんじゃないですか。
「昔は結構あったんだったんだけどね。根津のかき慎さんもやめて貝料理屋になっちゃったね」
——通りに面したところで、ホタテやカキの焼いたのを売っていますね。
「最近、外国人の観光客が多くて、隣の越後屋酒店さんが角打ちやっているから、立ち飲みする人がつまみにうちの貝焼きを買うんだよ。外人さんも結構買ってくれるし。なまこなんか不思議そうに見てるから、たまに食べさせてやると、オーオーとびっくりしてるよ」
——共存共栄ですね。地域の古いお客様も多いですよね。
「いるよ、いるよ。今来たのは日暮里駅近くの『川むら』の蕎麦屋さん。今頃はカキそばが名物だ。河岸に行って少しばかり買ってもかえって高くつくから、居酒屋や料亭はうちから買ったほうが安いんだよ。うちだって仕入れたらそのカキを剥いたり、下処理も大変なんだ。慣れちゃったけどね。朝は早いし、水を使って冬は冷たいし。毎日、豊洲まで車で仕入れに行く。仲買さんとも古い付き合いだからいいものが安く入る。でも築地から豊洲に越すのでやめた仲買さんも多いんですよね」
——従業員はいないんですか。
「いないよ。若い衆は生意気言うし、すぐ辞めちゃうし。それで手が足りなくて閉めた店もある。うちはお母ちゃんと、息子と、娘二人。家族だけのほうが気楽だよ。上の娘は事務を手伝ってくれている。誰か一人倒れてもダメだよ」
代々の付き合いを大事にしながらコツコツやってきた
——谷中銀座は昔からいろんなPRの工夫をしてきましたね。
「昔は1日と15日には日頃の感謝として一割引セールをしました。スタンプ500は昭和52(1977)年から。土曜日にはスタンプも倍出した。昭和56年(1981)に、東京都のモデル商店街第一号になった。まゆみさんたちが『谷根千』でこの辺のこと宣伝してくれたし、堀切理事長が張り切って、商店街いっぱいに盆踊りをしたり、お正月の七福神めぐり、俳句愛好者の吟行、写真展など、文化的な行事を始めたんです」
——1980年代でも、道の幅が狭いから、お互い釣り銭足りないと、前のお店と「貸して」とやってましたね。
「今でも、のなかストアの社長とか、『1円玉切れちゃったよ、ない?』なんてくるよ」
——頼母子講というのかな、木箱でお金を集めている姿も見ました。
「今はやってないけどね。頼母子講というのは、みんなで掛け金を集めて、その時商売の投資などで、お金がいる人がいたら、回してあげるの。近所のおばさんがうちにきて上がり込んで、『お茶ないよ』なんて叫ぶの。『そこにお茶っぱあるから、勝手に入れて飲んで』と言うような、そんな暮らし」
——ほら、原田の頭(かしらと呼ばれる、町を守ったりさまざまな役割を担う町内とび)のおかみさんなんて、着物着て、タスキかけて、ザルの上に卵だのなんだの乗せて買い物してたねえ。かっこよかったよねえ。
「そうそう、みんなそうだったよな。商店街で長瀞に親睦旅行に行ったり、鬼怒川に温泉に行ったりも楽しかった。オヤジ同士も仲良いから、倅同士も飲んだり、ゴルフに行ったり。そんな付き合いが代々続いているんだ。これでも進歩してるんですよ。スタンプも、台紙に糊をつけて貼るのから、最近もっと簡単なシールになった」
——お仕事で一番嬉しかったことは?
「お客さまに喜んでもらった時とか、あとは大きなところを掴んだ時だよ。農林中央金庫とか、NTTの社員食堂とか。朝の2時ごろ起きて、うなぎを割いて蒲焼を200〜500串くらい焼いて、配達したものです。今はうなぎも高くて売れないよ。昔は列車の食堂車でも生ガキを出したりして、よく売れたんだよ。でも新幹線は速くて、カキなんか食べてる間についちゃうよ(笑)」
——では、長く商売を続けるコツは。
「コツコツやることだね」
話の合間に、おかみさんが前の店からコーヒーをトレイに乗せて運んできてくれた。忙しい商売の時間、家でコーヒーを入れなくても、周りの店から食べ物も飲み物も調達できる。なんと便利な街だろう。
新米主婦の頃、私はこの店で「どうやって食べるの」を連発していた。バイ貝の煮方も、なまこの酢の物も、サザエの壺焼きも、お姉さん(今のおかみさん)に教えてもらった。たまに前を通ると素通りできない店なのだ。観光化が進む中で、どうか福島さんには「近隣住民のための店」を続けてほしい。
取材・文:森まゆみ
当連載のアーカイブーSince 2018ー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.1ー創業67年。町中華の「オトメ」はだれでもふつうに扱ってくれるー
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。
谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→
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