※読み物セレクション by 仕事旅行。これまでに公開したものから厳選した記事を再掲していきます。初出:2016年03月29日
新卒で優良企業に就職! という働き方の選択肢は、ときに人生の「プラチナカード」と呼ばれることもあるようです。しかし、周囲からは恵まれているように思えるポジションを捨て、新しい世界に突撃することで、思い描いていたキャリアを手に入れる人もいないわけではありません。
おカタイ仕事の代名詞とも言えそうな銀行員から、180度違うイメージもある“コピーライター”に転職した戸谷早織さんが、自身の体験談を執筆してくれました(「シゴトゴト」編集部)。
25歳の夏、私は銀行を辞めた
次の就職先のあてはなかった。
春めく季節が終わる頃、辞める決心だけは頑なに持っていた。はじめての辞表、はじめての退職。行き先もなく、これから彷徨うのだろうか。3 年前、真っ白なシャツにウデを通したとき、まさか自分がそうなるとは思いもしなかった。
そもそも、私は銀行員になりたかったわけではなかった。大学時代、私が憧れていたのはキャリアウーマン。憧れというより、キョーハク観念のほうが近かったかもしれない。「働かざる者、食うべからず」と言われる家庭で育った私は、大学入学したての頃から早く社会に出たいと思っていた。社会人になってからは娘に結婚を急かす母に言わせてみれば、そういう意図はなかったのだろう。
実際の就活を通して、そのキモチはもっと強くなった。大学時代に恋愛と無縁だった私は、結婚して家庭を持つより、自分が努力した分だけ返ってくる世界をとても魅力的に感じた。気づけばキャリアウーマンを採り上げる月刊誌を片手に、東京の狭い空を見上げながらバリバリと仕事をこなす空想に思いを馳せていた。だが、現実は甘くない。
やって来たのは、突然のリーマンショック。さあこれから就活がはじまるという時に、ゆとり第一期生の私はこうして荒波にもまれるのである。
空回りするステップアップ願望
新卒というカードは時に、「プラチナカード」と呼ばれる。一回きりしか使えないプラチナカード。最終的に私の手元に残ったカードは、とある地銀だった。地場ではトップシェアを誇る銀行で、行員は公務員のようなポジションだった。「この時代に銀行なんてすごいね」と友人からは言われたが、ホントに運が良かったという一言に尽きる。
なんで銀行にしたのか、その答えは単純だ。経済学部だったこともあり、友人のほとんどが金融機関を受けていたから。研修もしっかりあるからきちんとした社会人になれそうだし、信用できる人柄だと思われそうだし、なにより銀行に決まったといえば親が安心する。それだけの理由だった。いざ説明会へ行って話を聞いてみると、キャリアも積めそうだった。
私の配属先である都内の支店は少ない行員で仕事をしていたため、「一人が幅広く仕事をこなせる」「成長できる」と言われ、とりあえず受けることにした。そして縁あって入行となる。
やっとなれた社会人。大学の頃から憧れていた社会人。ここから、どんどんステップアップしていきたかった。にもかかわらず、実力が伴わずにキモチだけが空回りしていた。周りから見れば、私はとてもボーッとした新入社員だっただろう。
一度教わったことを何回も聞くし、自分で作ったマニュアルは抜け漏れだらけ。もはやそんなのマニュアルじゃないからミスも多い。そんな私だったので、仕事のデキる先輩とはギクシャク。給料もそんなに変わらないので、相手が不満に思うのは当然だった。
果たしてこのままでいいのだろうか?
社会人生活も 3 年が過ぎ、私は辞めることを考え始めていた。当たり前だが、仕事の幅はいっこうに広がらない。17 時きっかりに仕事を終え、実家でご飯を食べる毎日。それでも“なにか”を探そうとはしていた。
英会話、料理教室、婚活...20代女子が一通りたどりそうな道をたどり、3 年が過ぎたある日、帰りの電車の中から見える真っ赤な夕日を眺めて思った。社会人4 年目を目前にして、仕事もままならない。キャリアも築けていない。果たしてこのままでいいのだろうか。よくない。辞めよう。昔から直感的に生きてきた私は、いつも重大な決断だけは早かった。
辞めると決めたもの、何をしていいかわからない。旧友には、「あなたは自分の好きなことを仕事にしたほうがいい」と言われた。
しかし結婚を視野に入れていないのもあって、好きなことを生涯の仕事にするには覚悟が必要だった。そんなときにたどり着いたのが、書くことだった。
何かを伝えたり、書いたりすることは、昔から好きだった。それに、一度だけ日本語の使い方に厳しい旧友に文章を褒められたことがあった。向いているんじゃないかと思った。理由はそれだけ。これ以上自分を疑うことは、25 歳の私にとってキツかった。
ただ、ライターは山のようにいる。ネット上でライターを名乗ればその人はライター。私は普通の人間だし、アクセス数を稼ぐブロガーにはなれない。時事の話に詳しいわけでもないし、主婦が毎日参考に見に行くような料理ブログだって書けない。でも、とりあえず書いてみたい。そこでふと思い浮かんだのが、Twitter だった。
「書く」という見知らぬ世界に突撃してみた
Twitter で書き綴っていたのは、くだらないOL の日常だ。しかし当たり前の日常にも、時々サプライズがあった。たとえば職場で銀行強盗に遭うとか、にせ札事件が起こるとか、男子高校生に道端で声をかけられたとか、近所にあるカレー屋のインド人にソフトクリームを奪われるとか。そういったネタのような出来事が日常茶飯事だったので、それを遭遇したまま書き綴っていた。
気づいたときには、いつの間にかフォロワーさんは増えていた。その中で、仲良くなったのが推定40 代のフリーライターの男性。出会いは突然、ではなく私が意図的に起こしたものだ。twitter で「フリーライター」と検索してヒットした方をフォローし、何回かのやり取りを通して仲良くしていただいた。
後日、とりあえず会っていただけることになった。あとから友人に話したら、「見ず知らずの人に一人で会いに行ったの...?」と驚かれた。とても直感的な人間...というより、もはや突撃型かもしれない。
仕事は、とてもラッキーなことにすぐにいただけた。言っておくが、私は別に文章がうまかったわけではない。ただ、その方がすごくいい人だった。書くのは初めてだというのに応援してくださり、とある大手Web サイトにてスマホアプリの使い方をサイト上で説明する仕事をくださった。出稿本数は月8 本。その原稿すべてを任せていただき、その原稿すべてに 赤ペンを入れて見てくださった。本当に感謝しかない。
「ごめんね、ホントは雇ってあげたいんだけど。フリーになるっていうのは厳しいんだよ」、そう言われて最後の仕事をいただいた日、私はライターを本業にしたいと思った。それがコピーライターの入り口だった。
「言葉」を磨く職場へ。楽しさに勝るツラさはない
ひとりで食べていくためには、実力が必要だ。銀行員からライターなので、親にとってはあまり喜ばれたものではなかった。親を説得するには、正社員でなければならなった。しかしそんなにいい条件の求人もなく、諦めかけていたときに、求人の紹介を受けていた転職サイトの運営会社の担当者から「実はうちも募集しているんですよ」と話をもらった。それが今勤める会社との出会いだ。
「こんな難しそうな仕事、私にできるんだろうか...」。聡明でセンスが良い人が手がける仕事、それが仕事内容を聞いたときの印象だった。「どんな人に何を伝えるか」「どんなメリットを伝えるか」ということを考えた上で、求人広告を書く仕事らしい。
家に帰ってそう母に話すと、「あんたにそんなことできるはずないでしょ...」と言われた。その通りだ。私もまさに同じことを思っていた。言われたことを正確にこなす職務をこなせなかった私が、何かを生み出す仕事なんてできるわけがない。それなのに、気づいたら入社を決意してしまった。
正直、「自分に向いている!」と思ったことは、入社2年を超える今の今まで一瞬もない。あの時、「やってみたい!」という自分の内側の叫びに、逆らえなかっただけだ。
遊びも仕事も全力で楽しむ。入社して間もない頃は、前職とは180 度違う職場の風土に戸惑いしかなかったが、すぐ会社も仕事も好きになった。
コピーライターが解決するのは、人材採用における企業が抱える課題だ。たとえば、新宿駅から徒歩 5 分圏内の企業と最寄り駅から車でしか行けない企業では、抱える悩みがまるで違う。前者はときに100 を超える応募数の中からいかに人材を選りすぐるか、後者はまずはどうやって応募数を集めるかが課題になる。それを考えて訴求することが面白かった。
一分一秒を惜しむほど多忙でも、やっと仕上げた原稿を5 秒で上司に舌打ちされた後、激詰めされても、楽しかった。楽しさに勝るツラさはなかった。
クリエイティブな仕事は、磨きあげた分、光るもの。考えることはとても楽しく、私は泥臭くガツガツと仕事に熱中できた。何時まででも仕事をしていたかった。まさに、私の思い描いていたキャリアそのものだった。
行き詰まっていたとき、仲間に出会った
新しい会社で2 年目に突入した頃、私は悩んでいた。 研修期間を過ぎても、表現力などのアウトプットが上手くならない。私は人生でほとんど成功体験がなかったので、自信もなかった。努力するしかなかった。くだらない内容だな、と 上司に言われるたび、私もそう思いますと心の中で援護射撃するしかなかった。
来る日も来る日も、猛烈に情けない。そんなときに出会ったのが、出版社主催のコピーライター養成講座だった。少しはできるようになるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、とりあえず説明会へ行くことにした。
若い講師が登壇し、広告の楽しさを語る。自分の手がける仕事を語る。話が終わった瞬間、私はもうほぼ通うことを決めていた。完全なる一聴きぼれだ。全10回におよぶ講座は、10万円かかる。なぜ通おうと思ったのか。陳腐な言葉だが運命を感じたから、としか言いようがない。
講座の仲間はみんな広告が大好きで、好きなコピーライターの名前や好きなコピーを酒のつまみに談笑していた。私は一切、会話に入れなかった。講座では課題の質の差に、奥歯をかみ締めた。何も知らないくせに尋常ではないほど悔しくて、飲み会からは足が遠のいていった。
この仕事はセンスではない。それを教わってから、私はできる限りの努力をした。ガツガツと仕事をしながら、平日の昼休みは課題に食いつき、休日も講師に言われたとおり勉強する。気づいたら、そんな予想もしなかった毎日を送っていた。最後の最後に一度だけほめられ、講座は終わった。
たった3 ヶ月。すべての講座が終わった後の飲み会では、みんなの輪の中に入って広告談義に花を咲かせている自分がいた。かけがえのない講師の方々に出会えたこと、いっしょに頑張れる仲間に出会えたこと。すべてが今の私の原動力だ。
そして昨年の秋、広告業界の大きな公募で、一次選考通過率1.33%の難関を突破した。驚いた。「努力は実を結ぶ」という経験をこの歳ではじめてした。間違ってなかったんだ。そう思いながら、雑誌に写る自分の名前を指でなでた。
人生も、世の中も、いつ何が起こるかわからない
世の中もあれから随分と動き、2 月の頭、政府はついに新しい施策に踏み切った。これにより、私たちがお金を預けている市中銀行の業績は一気に低迷。いざとなったら助けてくれるはずの日銀は、頼りにできない存在になった。銀行はつぶれないから安心という神話も、今や崩れ去ろうとしている。
こうして改めて自分のキャリアを振り返ると、大きな節目はあったのかなと感じる。あのまま銀行に勤めていたら、私はどうなっていただろうか。なんのスキルもないまま、いつか自分の出番が来ると信じて、ただ呆然と仕事を待っていただろう。
待っていてもチャンスはやってこない。これからのキャリアをどう歩むか。それは自分が決めることだ。運命のカタチは、自分で変えよう。いつか結婚しても、子どもが生まれても、仕事が軌道に乗らなくなっても、私はずっとこの姿勢を貫いていきたい。
文:戸谷早織(コピーライター)
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