2018年02月27日更新

【厳選過去記事】写真家・ヨシダナギ「仕事」を語る(前編)ーアフリカに行くまで、日々こんなに一生懸命生きたことなかったー

※読み物セレクション by 仕事旅行。これまでに公開したものから厳選した記事を再掲していきます。初出:2017年01月13日

様々なジャンルで、世の中面白くなるような仕事をしている方々が、その人の「仕事を語る」ロングインタビューシリーズ。今回のゲストはフォトグラファーのヨシダナギさんです。

少数民族と仲良くなるため服を脱いだことから、「裸でアフリカをゆく写真家」というふうに紹介されることも多いヨシダさん。なぜ彼女はアフリカに行こうと決意したのか? 学校でイジメにあうなど引きこもった生活を続ける中で、なぜ、カメラを手にしたのか? 

「考えることをやめる」ことで世界に飛び出した一人の女性が、いまの仕事に出会うまでのお話うかがってみました。

聞き手:河尻亨一(銀河ライター/仕事旅行社・キュレーター)
※写真提供:ヨシダナギ氏

マサイ族にはなれないと知り、10歳で「すべて終わった」と思った


ーーヨシダさんは小さい頃、マサイ族という「仕事」があると思っていたそうですね。

ヨシダ:マサイ族は5歳の頃テレビで知ったんですけど、「仮面ライダー」とか「セーラームーン」と変わりないと思ってたんです。まずアフリカ人だとわかってなかった(笑)。

そのとき見たのは、「交換留学しよう」みたいなバラエティ番組で、出演している人がマサイの村を訪れるんですけど、日本人も出てくるから余計に混乱してしまったというか。遊園地のアトラクションの人みたいに思ってたんです。だから華やかな衣装を着ているのを見て、「いいなあ」って。肌の色とかは違うけど同じ人間だからなれるんだろうと。ま、セーラームーンも「頑張ったらなれる?」って思ってたんですけどね(笑)。

ーーそれでマサイ族になりたいと?

ヨシダ:そうですね。私、ちっちゃいときマサイになりたいって思ったこと以外、なりたいものが何ひとつないんですよ。それ以来、将来の夢って持ったことがなくて。

でも、挫折したんです。10歳で。「マサイには絶対なれない」ってことを親から突き付けられ、世の中にはどんなに努力してもなれないものがあるんだってことがわかった。例えばお医者さんなら、私が一生懸命勉強をすればなれる可能性はあるんです。でも、マサイ族には生まれた人種が違うからなれないと。

で、何だろう? 「すべて終わった」と思って、そこからは特に何の夢を持つこともなく、淡々と来ちゃったというか。

ーー10歳で挫折して、その後ヨシダさんが実際にアフリカに行って、本物のマサイ族に会うまで10何年とか時間が空くわけですけど、マサイにはなれないと知った後もそのことを考えていました?

ヨシダ:それが、そうじゃないんですよ。「アフリカのことばっかり、四六時中考えてたんですか?」ってよく聞かれるんですけど、そんなこともなくて。別にひねくれてるわけではないんですけど、「将来の夢を持たなきゃヤバい!」なんて思ったこともない。ただ何も考えてなかったんです(笑)。

ーー今日はその何も考えてなかった人が、「どういう経緯で写真家になっていったのか?」というあたりをうかがっていきたいのですが、10代の頃なんかはどんなふうに過ごしていたんでしょう?

ヨシダ:10歳までは東京にいたんです。子供の頃から基本的にあまり人と戯れるほうではなかったですね。保育園がずっと一緒だった幼馴染がいて、誘われたら遊びに行く。だれも誘ってくれない日は、家にいるとお母さんが怒るので、団地の外で野良猫と遊んだり、いろんなもの拾って食べたりして遊んでました。

そのとき住んでいた団地の周りが結構面白くて。裏山があったり、ザクロを拾って食べたり、木登りなんかもして楽しかったんですけど、10歳で千葉に引っ越したんです。そこからですね。イジメにあうようになったのは。元々引っこみ思案だったのが、それで余計にこもる性格になってしまい、どんどん暗くなって、もうネガティブなことしか考えられないというか。

「なんで私ばかりイジメられるんだろう?」と思うと、何をしていてても常に楽しくなくて。極端な話、ハタチくらいまでそんな感じでした。


マサイ族(「Nagi Yoshida Official」より)

考えることをやめ実家を出て「明るい引きこもり」になりました


ーー引きこもりがちだったのが、ハタチくらいのときに何か転機が?

ヨシダ:考えるのを止めたんです。ある日突然。で、21歳になる直前に私、親元を出たんですよ。あ、うち両親が離婚してるんです、私が14歳のときに。そのとき父に引き取られて。

で、なんだろ? 学校には行かなきゃいけない。行けば笑ってないといじめられるっていうのがあって、中二で学校行かなくなったんですけど、家にいてもお父さんの機嫌をコソコソうかがいながら生活するのが、自分の中ではすごい圧迫感で…。

お父さんのことは大好き。でも、心のどこかで「この家出ないと、たぶん私ずっと辛いまんまだ」っていうのがありました。学校にも行かず、お父さんと過ごしていることが負の連鎖生み出してるんじゃないかと。で、「どうしよう?」って。

ーー家族だから逆に気を遣うっていうこともあるでしょうしね。
 
ヨシダ:でも、私一人で何もできないんですよ。一人で出かけることもできなくて、一人で洗濯もしたことなくて。で、いろいろずっと考えて、「できない、できない」って思ってたんですけど、21になる直前に、ある日本当に突然考えることをやめて、「一人暮らししちゃえよ!」「しちゃえばいいんだ!」って。

それで短期バイトをやってまとめたお金を引っ越し代に回して、お父さんには引っ越しの前日くらいに、「明日出ていきます」って。

ーー一大決心ですね。

ヨシダ:でも、そうやって一人暮らしを始めたら、もう、すべてが楽しくなっちゃったんです。ホームシックにもならず。

それまでは親が掃除してたからわからなかったんですけど、一週間掃除機かけなかっただけで、部屋にホコリの玉ができて、「こんなものがどこから生まれたんだろう?」って思うところから始まり、原色が好きなので食器を真っ青とか蛍光の緑にしたら食欲がすごい落ちて、色が与える影響力を学んだり。

なんか、どうってことない日が楽しくて、その家にいることが、ポジティブな意味で楽しくなったんですよ。前は嫌なまま家にいたんですけど、今度は明るい引きこもりなんです(笑)。家ってこんな発見がある、そして守られてるということに気づいたというか。

そこからですね。考え方が変わっていったのは。それまでは生きることはすごく苦しいことだと思っていたんです。ずっとろくなことがなかったので。でも家を出てからは「生きることは死ぬまでの暇つぶし」っていう考え方になって。死んじゃえば終わるし、極端な話、人様にそんなに迷惑さえかけなければ、好きなことやって失敗したって、多少借金背負ったって、ギリギリまで楽しいことして死んでやればいいやって。

ーーじゃあ、アフリカ行きはその一人暮らしの延長なんですね?

ヨシダ:延長線です。それまでずっと秘めていた想いを、ポジティブになったときにふと思い出して、アフリカ行ってみようって。英語ができないことがずっとネックだったんですけど、「とりあえず行って、諦めちゃえばいいんじゃないかな? ダメだったら」って。

ーーそのとき写真はすでに撮ってたんですか。

ヨシダ:いや、それは最初はアフリカとはつながってなくて。写真を撮り始めたのは21~2歳ですかね? お母さんが再婚してそのとき保育園くらいの子どもがいて、その子に英語を教えたいから、フィリピンに短期留学をさせたいと。で、「一人で子ども二人を見るのは大変だし、不安だし、あんたでもいるだけ安心だから一緒に来てくれない?」って言われて、一カ月行ったんですね。

そのとき、なんとなくカメラ持ってったんです。旅行に行くからっていうので、安い一眼を買って。行くとスラム街があってそれと知らずに入ったんですけど、子どもたちの笑顔がすごく綺麗だったので、それを写真を撮って、ブログに載せたら「写真うまいね」って言われて。そのときイラストレーターやってたんですけど、絵を描くより楽だと思って。モデルさえいれば生み出す力は何もいらないと(笑)。

ーーあ、イラストの仕事をしていたんですね?

ヨシダ:イラストは昔から好きだったんですけど、仕事にするのは嫌だったんです。話が戻っちゃいますけど、14から20まではグラビアアイドルでした。

ーーん? それは引きこもり時代ですよね?

ヨシダ:グラビアの仕事はしていたんです。えっとね、14歳で引きこもりになったときに、当時インターネットの先駆けの時代だったんですけど、掲示板で知り合った出版社の方がホームページを作ってくれて、そこに私の頭の中にある物語を書いていたんです。

二択になっていて、どちらをクリックするかで違うストーリーが進んでいくものなんですけど、そのサイトにポートレイトを載せるといいんじゃない? って言われて一枚だけ載せたら、当時14歳が顔出しでネットに書いてるということがまだ珍しくて。ちょうどインターネットアイドルの全盛期でもあったので、勝手にいろんなところに登録されて、そしたらスカウトされたのでグラビアアイドルになったんです。

私の人生、ネットで救われてるんです


ーー仕事をネットで得ることから職歴が始まってるんですね。

ヨシダ:私の人生、ネットで救われてるんですよ。フォトグラファーになったのも、ネットで「あいつフォトグラファーだ!」って言われていまに至るというか。

ーー引きこもってネットに物語を書いていた人が、グラビアアイドルからイラストレーター、写真家になっていくという流れが面白い。いまっぽい仕事の作り方という感じもするというか。

ヨシダ:でもグラビアアイドルは、そもそも性格的に向いてなくて。年齢的にもきつくなってくるし、業界もいやだから、「どうにかして辞めたい」って考えたときに、よくしてくれていたカメラマンに相談したんです。そしたら「絵がうまいんだから、イラストレーターになったら?」って言われて、とりあえず辞めるためにイラストレーターになったんです。

ーーとりあえず辞めるために…(笑)。なれてしまうのがすごいけど。

ヨシダ:何かがないと親も説得できないですしね。「あなたは特技がないんだから、人と違う何かをしなきゃいけない」って常々言われてましたから。

そしたら最初は楽しかったんです。でも、言われたように描くのが嫌で。私、人から指示されると何もできないんです。で、1年くらいでスランプになって、ちょうどそのときにカメラを買って褒められた。それでイラストレーターを辞めたわけではなく、最初はどこかに出かけるときに子どもの写真撮るだけだったんですけど。



ーーそんなこんなで7年くらい前からアフリカに行き始めて、滞在中に起こったいろんなことがヨシダさんの本(『ヨシダ、裸でアフリカをゆく』)に書いてあります。以降、何十回、十数か国行かれてますけど、なんでそんなにアフリカにハマったんでしょう?

ヨシダ:私は少数民族に会いに行ったんですけど、彼ら結構ビジネスライクで。もっとすんなり仲良くなれると思ったんですよ。もしなれなかったとしても、その人たちと同じ恰好をすれば仲良くなれるっていうのは、「マサイになりたい」と思ったときからわかってたんです。でも「同じ恰好をしたい」っていう英語ができなくて。

なので最初のときは仲良くなれずに、「ああ、こんなにビジネスライクなんだ」「仲良くなりたいけど、それも言えない」っていうもどかしさがあって、少数民族に関しては不完全燃焼でしたね。でも、思いのほかそこら辺にいる名もなき人たちが、私の思い描いていたアフリカの人のイメージ通りだったんです。むしろ、想像以上に魅力的でした。

ーーその辺の人たちはどんなところが魅力的なんですか?

ヨシダ:みんなカッコいいですし、眩しい笑顔で笑ってますし、でも、動きがなんとなくコミカルだったり、なんかもうちょっとしたリアクションの一個一個が私の中ですごいツボで。

「なんてかわいらしいんだろう」と思うと同時に、「なんて理不尽なことを言ってくるんだろう」と(笑)。で、アフリカに行くまで、日々こんなに一生懸命生きたことが自分はなかったんですよ。「生きるってこんなに疲れるんだ」って思ったというか。

ーー疲れ…それはどういうタイプの「疲れ」なんでしょう?

ヨシダ:「伝えなきゃって」ことですね。日本だと人としゃべるのが嫌いでも、一応はなんとかなるじゃないですか? でもアフリカだと、しゃべらなきゃいけないし、なおかつ英語。ときには英語がわかんない人だっていますし、わかったとしても私のこの淡々とした話し方だと伝わらなくて、大げさなくらいリアクションしなきゃいけないとか。あと「なんでこんなにしつこいんだろう?」と(笑)。

ーーあの本に出てきましたけど、旅のあいだどころか帰国してからもメールでG-SHOCKをひたすらねだり続けるガイドの人(シセ)には笑いました。文章では面白く描かれてましたけど、身近にいると濃いキャラすぎてイラっときそう。本当にいるんですね? ああいう人。

ヨシダ:本当にいるんです。あのときは本当にしんどかった。いまでもたぶん勝てないです、彼には…。もう一回会って、いまなら勝てるかやってみたいんですけど(笑)、でもたぶん会ったらダメだと思う。

ーー写真や絵のお話うかがってましたけど、ヨシダさんは書く文章も面白いですね。「ひきこもり」とか言うわりに、実は根っこは明るいのでは?

ヨシダ:ひねくれてるだけかな?(笑)でも、文章書くのは好きなんですよ。本を読むのは苦手なんですけど。

小学校1、2年生の夏休みに学童保育に通っていて、みんなが夏休みの宿題をしている時間に、私は漢字の勉強じゃなくて、国語のノートに思ったようなことを詩で書いてたんです。

そしたら先生に「ナギ、これ、何を見て書いたの?」って聞かれたので、「頭の中にあったものを書いたの。教科書はつまらないし、いま、これを書きたかったから」って言ったら、先生がそこですべてを察してくれて、お母さんに「ナギは、思っていることを話で伝えること、顔に出して表現することがすごく苦手な子だけど、ペンと紙さえ渡せば思っていることをちゃんと文字で伝えることができます」って言ってくれたんです。

それ以来、思っていることは手紙で書いたり、親にも大事なことは手紙で伝えるようになりましたね。お父さんにも置き手紙だったり。

ーーそれはまた不思議な感じですね。

ヨシダ:顔を合わせて話すことが日曜日くらいしかなくて。お父さん、無口な人なんです。小学校のときなんて一緒にいてもプロレスしかしないんですよ。だから私、バックドロップで育って(笑)、お父さん、子供の頃バックドロップをしすぎたから私がこうなっちゃったんだって思ってるみたい。

でも文章にすることで「伝わる」ということがわかったのは、私にとって大きいことで。友達も文通で作れることを知ったんです。いま私の友だちって、たぶん8人くらいなんですけど、そのうちの6人はメル友か、文通をきっかけに出会った人たちです。


ヒンバ族(「Nagi Yoshida Official」より)

ようは追っかけです、アフリカの。自分にとってのアイドルをみんなにも「カッコいい」と思ってほしくて


ーーここまでのお話で言うと、ヨシダさんにとって文章であれ、絵であれ、写真であれ、すべてが"仕事"というか、生きるためのコミュニケーションの方法なのかもしれない。なので特に「フォトグラファー」という肩書きにこだわりを持ってるわけでもなさそうなんですが、それにしても写真に力ありますね。被写体のパワーに負けてないというか、ガチに向き合ってる感じがあって。

ヨシダ:いつも思うのは、私が撮るから彼らがカッコいいんじゃなく、元々彼らがカッコいいんですよ。私、腕はないですし、彼らの生命力あっての作品だと思っているので。私は写真を撮ってるっていうより、アフリカにカメラを置いてきているだけであって、もっとうまい人が撮ったら、もっとすごいと思います。

ーーただ、だれが撮ってもこうなるか? と言うと、そんなことはないでしょうし、ヨシダさんが伝えたい何かがあるんじゃないかと。

ヨシダ:その意味で言うなら、常にリスペクトがあるというか、彼らのことをハリウッドスターくらいの存在だと思っているんです。なんだろ? その気持ちをカラダで示しているというか。

ーー言われてみれば、アイドルみたいに撮ってますよね?

ヨシダ:そうなんです。アイドルだし、ヒーローだし。すごくカッコいい、私にとって。ようは追っかけなんですよ、アフリカの(笑)。だから、例えば自分がプロデュースする立場だとしたら、自分のアイドルはカッコいいとみんなにも思ってほしいんです。

なので、撮影のときも右向きがカッコいい人には右を向いてもらったり、私なりにその人が一番カッコよく見える立ち位置にして、最高の状態でその民族を紹介したいんですね。

私の写真で初めてヒンバ族を見た人は、そのヒンバ族がもしかしたら最初で最後のヒンバ族のイメージになるかもしれなくて、ブスな表情の人を入れたら「ヒンバ族って意外とブスだね」ってなっちゃうかもしれない。でも、それは言わせたくない。常に100%ベストの状態でその民族を紹介したいので、被写体の顔をちゃんと見たりだとか、性格も見たりだとか。そういうので立ち位置も決めて撮影までもって行ってるつもりなんですけど。

まあ、撮影が終わっちゃえばもう普通の一人と一人なので、私にとってのアイドルだからってゴマをするわけでもなく、ムカついたら文句も言うんですけど。

ーームカつく人もいるでしょうね。

ヨシダ:います(笑)。でも友だちだから、サイコーだと思ってるから、言えるのかな? 少しでも相手を下に思っていたら、逆に諦めて言わないですよね。「お前、なんでちゃんとやらないの?」なんて言っちゃいけないと思って。でも逆に頑張ってくれたら、「ありがとね」って言いますし、やっぱり友だちの延長線? 「友だちをカッコよく見せたい!」ってことなのかもしれないです。

後編はこちら→写真家・ヨシダナギ「仕事」を語る(後編)ー私のヒーロー、アフリカの人たちがこの仕事をくれたー

ゲスト・プロフィール

ヨシダ ナギ(nagi yoshida)
1986年生まれ、フォトグラファー。幼少期からアフリカ人へ強烈な憧れを抱き「 大きくなったら彼らのような姿になれる 」と信じて生きていたが、自分は日本人だという現実を10歳で両親に突きつけられ、挫折。

その後、独学で写真を学び、2009年より単身アフリカへ。アフリカをはじめとする世界中の少数民族を撮影、発表。その唯一無二の色彩と生き方が評価され、TVや雑誌などメディアに多数出演。2017年には日経ビジネス誌で「次代を創る100人」に選出される。

近著には、写真集『SURI COLLECTION』(いろは出版)、アフリカ渡航中に遭遇した数々のエピソードをまとめた紀行本『ヨシダ、裸でアフリカをゆく』(扶桑社)がある。オフィシャルサイト:http://nagi-yoshida.com

インタビュアー・プロフィール

河尻亨一(かわじり・こういち)
銀河ライター/東北芸工大客員教授。1974年生まれ。雑誌「広告批評」在籍中に、多くのクリエイター、企業のキーパーソンにインタビューを行う。現在は実験型の編集レーベル「銀河ライター」を主宰し、取材・執筆からイベントのファシリテーション、企業コンテンツの企画制作なども。仕事旅行社ではキュレーターを務める。アカデミー賞、グラミー賞なども受賞した伝説のデザイナー石岡瑛子の伝記「TIMELESSー石岡瑛子とその時代」をウェブ連載中。
ロングインタビュー: 2018年02月27日更新

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