仕事の大先輩とざっくばらんにおしゃべりしながら、面白く長ーく働き続けるための秘訣を聞いてみるインタビュー。作家の小沢信男さんのお話の続きです。
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90歳になったいまも「書く」という仕事を続けている小沢さん。大学卒業後、持病もあって就職先を半年で辞めてしまったその後は? 聞き手は編集長の河尻がつとめます。
小沢信男さんの著作③:『定本 犯罪紳士録』と『裸の大将一代記ー山下清の見た夢』。犯罪物でも評伝物でも、小沢さんの眼差しは社会の"スキマ"を歩く人々に注がれている
勤めてないから首にもならない。つまりは「ペンの職人」なんだな
河尻:就職して半年で辞めるというのは、いまの若者もビックリのスピード退職なんですけど(笑)、それはもうあっさりと? 病気から回復してまた就職しようとかは思わず?
小沢:そう(笑)。まあ、ちょうど昭和34年(1959年)にタウン誌の「うえの」(
公式サイト)が始まったのよ。それを手伝うことになったのもあって。
河尻:「うえの」と言えば「銀座百点」と並ぶ地域フリーペーパーの老舗ですね。
小沢:うん、その頃はタウン誌というのは、まだ「銀座百点」があるぐらいだった。
経緯としては、そのちょっと前に河出書房が倒産しちゃったんだね(その後、「河出書房新社」として再出発)。それで「うえの」の編集に、河出で編集長をしていた飯山正文さんっていう人に声がかかったんです。飯山さんは日大芸術学部の先輩で。でも、ご当人はあまり気乗りもしなくて、子分を連れていった。それが「江古田文学」からの仲間で、手伝いに来てよってことで、出入りを始めて。
河尻:「うえの」には就職したわけではないんですよね?
小沢:はじめはただのアルバイト。そのうち嘱託とよばれたり、いつのまにかいまでは顧問なんですけど。勤めてないのよ。勤めてないからクビにならないんだ(笑)。
河尻:確かに(笑)。先生、いまも「うえの」の助っ人編集委員みたいな感じなんですか。
小沢:まあまあ、そうだねえ。いまも編集会議と出張校正は付き合う。「うえの」は上野のれん会(※14)が出してる雑誌なんですけど。谷中のわが家からも近いからね、週に1ぺんぐらいは事務所に顔をだして、コピー機を使ったり(笑)。これが最新号です。
河尻:月刊で700号越えはすごいですね。大河ドラマの「西郷どん」やパンダの赤ちゃんの記事もあって、豪華な執筆陣でこれがタダとは。ところで小沢さん、「うえの」では最初の頃どんな仕事を?
小沢:いろいろやりましたよ。有名人の談話を取りに行ったりしてね。長嶋(茂雄)から王(貞治)から、柔道の三船久蔵十段とかさ。
ロータリークラブの幹事をしていた須賀利雄会長の顔が効くからね。いろんな人のところに行って話を伺って、オレが代筆するわけ。初めの頃は1冊の半分くらい書いた号もあるなあ(笑)。そういう時期もあったりして、そのうちだんだんタウン誌なるものが知られてきて、楽になりました。
いま思えばあの頃は、座談会をやるのも贅沢でしたよ。有名店へ知名人においでいただいて、1時間2時間たっぷり速記録にとって、それをたった6ページに縮めちゃうのがオレの仕事で(笑)。
そもそも町というのが、いまとは違ってね。昭和30年代はまだまだ家並みも低くて、広小路の北には上野のお山、南には松坂屋がしっかり聳えていた。居並ぶそれぞれのお店に歴史があって、大旦那もいれば小旦那も、っていう感じだった。
河尻:下町って感じなんでしょうか? 昭和30年台だと、「三丁目の夕日」的な光景というのか。
小沢:うん。店先で、下駄履きの旦那同士がのんびり立ち話をしていたり。喫茶店で昼間からだべって遊んでる旦那たちもいるんだ(笑)。おかみさんが強いから、お店はおかみさんに任せてね。「イトウ珈琲(池之端仲町通りにあったジャズ喫茶)に行けば、誰かいるよ」ってなもんでさ。
大旦那クラスなら、お正月三が日なんかに須賀会長に道でばったり会って「おめでとうございます」って言うと、大きな財布からサッとお年玉をくれるんだよ。出入りの職人と出会ったって感じでさ(笑)。そんなわけで「うえの」にはだいぶ食わせてもらいました。
やってるうちにどんどん変わっちゃったね。ビル化が進んで軒並み勢揃い、旦那連もみんな社長さんになっちゃってさ。社長室はおおかたビルの上のほうにあるんだよ。世の中が均一的になる一方のようだねぇ。始めた頃は「どこどこの大将!」なんてさ、道端で旦那同士が挨拶してたのにね。
河尻:人によっては、「雑誌を立ち上げよう」とか「会社を作ろう」なんて、考える人もいますよね。小沢さんは「こういう事業をやりたい」みたいなことは、あまり考えなかったんですか?
小沢:まったく考えないよ、そんなの(笑)。同人誌を文学教室の若い仲間たちと身銭切って作ったり、そんなのは懲りずに何度もやりましたけどさ。
河尻:いまに至るまで、そんな感じで働いてきたんでしょうか?
小沢:つまり、何だろう? 「ペンの職人」なんだな。職人の暮らしをしてきたっていう感じはある。職人っていうのは、いいんじゃねえかな。あっはっはっは(笑)
原稿料というのはお布施だよ。多けりゃ「しめた!」ってもんでね(笑)
河尻:それにしても、いまも週1くらい行ってらっしゃるのがすごいなと。その一方でご自身の作品を書かれたり、「新日本文学」の活動をされたりしてたんですね。
小沢:そうだねえ、「新日本文学」で損な仕事ばっかりやってた(笑)。だから両方だね。「うえの」では文章職人で食いながら、「新日本文学」では何て言ったらいいんだろう? 文学運動?(笑)。それをずっと。
河尻:バランスも必要なんでしょうか。一方だけだとしんどくなっちゃいそうで。
小沢:そうそう、でも「新日本文学」が居心地良かったわけでもないんだ(笑)。左翼の団体だもの、コミュニズムとかマルキシズムとか。みんな理論家ですから。
河尻:そういう時代ですね。小沢さんとはちょっと肌合いも違うグループなのでは?
小沢:誘ってくれた武井さんは周りに言ってたみたい。「いいんだよ、あれ(小沢さん)は政治を知らないんだから」って(笑)。そうやって、一種、別格扱いなんだよ。そこもちょっと落伍してるというか。
河尻:今日は「落伍」がキーワードになってますけど、それも長く仕事するための秘訣かもしれませんね。優等生路線ずっと走り続けると疲れちゃう気もして、上手に落ちこぼれる方法っていま必要なんじゃないかと。ここで文学運動と作家・小沢信男の仕事のお話も聞いてみたいんですが。
小沢:さっき損ばかりって言ったけど、ほんとうは得ばかりしてきたんじゃないかなぁ。「新日本文学」が昭和36年(1961)に季刊の別冊をだしたときに、ヤマギシ会の取材をして来いって言われたわけ。これがルポルタージュを書いた最初でね。
当時ちょっとスキャンダルな話題になってたんだけど、行ってみて目を見張った。三重の山の中に、養鶏を主に一つの村ができていて、「無所有」という暮らし方を実践してるんですよ。いうなら民衆的思想運動体なんだ。以来ながいお付き合いになって、いまも心の故里のような気持ちでいます。それは非常に勉強になってありがたかったけど、身銭を切って行ったんですよ。
河尻:取材費自分持ちですか?
小沢:「新日本文学」だもの。しょうがないよ(笑)。まあ稿料というのは、なんだろう? お布施みたいなもので。だから、少ないのも多いのもいろいろあって当たり前。で、多けりゃ、ありがたい。「しめた!」ってなもんで(笑)。だって安いから下手に書こうっていうわけには…
河尻:いかないですよね。
小沢:ね? そうはいかないもん。同じだもの。こっちは同じでやってるんだから…ってことはやっぱりお布施だ(笑)。
ただね、そもそもから花田清輝さんには、原稿料を出してちゃんと売れる雑誌にしようという思いはあったんだね。別冊もその試みで松本清張さんの小説をのせたり、編集長の長谷川四郎さんも張り切ってたけれど。たった2冊で挫折したんだ(笑)。
実際、花田さんの主張が通って、1年間ほど稿料を出した時期もあったんだ。それまでは1枚50円の原稿用紙代だったのを、1枚300円にすると。オレなんかちょうど連載してたからね、それなりの額になったよ。
河尻:それは素晴らしい。
小沢:でも、ろくすっぽ払えないんだ、結局。そのころ前衛的な絵描きたちから絵をもらって、売って会の資金にしていたんだが。その中から1枚稿料代わりに持ってけ、というんで坂本善三さんの絵をいただいた。やっぱり得したんだな、はっはっはっ。
河尻:アバンギャルドですね、絵がギャラ代わりなんて(笑)。
小沢:それで、ヤマギシ会このかた、ルポルタージュの若手というふうに見られてきて。そのうちに、徳間書店が「問題小説」っていう新しい雑誌を出したんですよ。すでに「オール讀物」とか「小説新潮」なんかがあったんだけど、そこへ徳間が殴りこみをかけた。
この「問題小説」がルポルタージュに力を入れるっていうので。それで当時、ある女学生が突然失踪しちゃって、どこにいるのか半年ぐらいわからなかったっていう事件があって(1965年の女子高生籠の鳥事件)。それをテーマにルポを書けと言われてね。
河尻:『犯罪紳士録』という書籍に収録されてますが(「蒸発」)、奇妙な事件ですね。人間て不思議だなって思うような。
小沢:うん。始めのうちはクォータリー(季刊)で100枚って話で、たっぷり取材ができて、いい経験でした。いざ書くときは月刊になって、50枚にまとめろと。それがかえってよかったんだな。けっこう評判になってね。犯罪ルポを毎月書けって言うの。
冗談じゃないよ(笑)。毎月はとてもできませんって言って、隔月でやることにしたんだけど、何年かやるうちにくたびれちゃって。
で、私に代わったのが、佐木隆三(※15)。佐木隆三は書いたんだよ、毎月。彼はその連載をずっとやって、ついに大傑作を書いた。『復讐するは我にあり』。題名は聖書の中の言葉ですけど、日本列島をずっと犯罪して回って、熊本で捕まった人の話。あれは、犯罪物を積み重ねてきたうえでの傑作だよね。
小沢信男さん
やってみると面白いんだよ。「ほー」というようなことがあってさ
河尻:『犯罪紳士録』は小沢さんの代表作のひとつで、いまも読まれ続ける名著なのですが、最初は偶然というところもあったんですね。そこが興味深いなと。
小沢:そう。いつもだいたい受け身(笑)。でも、くそまじめな「新日本文学」の連中からは、「あいつはこの頃、犯罪物なんか書いてるそうだ」って目で見られたりもしたな。当時はまだ、犯罪物なんて扇情的な、イヤシイ読み物という扱いではあったんです。
こっちはこっちで「なに言ってやがんだ、読みもしないで」って反発もあったんだけど、5~6回書いたところで三一書房って出版社から、新書にしようという話が来てね。で、その新書を読んだ鶴見俊輔(※16)さんからハガキが来たんですよ。
河尻:なんて書いてあったんでしょう?
小沢:下手な字でさ、この本には見どころがある、犯罪大全集をつくるつもりでおやりなさい、って言うんだよ。それはもう叫びたいほどありがたかった。その後、大岡昇平とかいろんな人が文学的テーマとして犯罪物を書いてゆくんだけど、ちょうど潮の変わり目だったんだな。だから、そういうジャンルの草分けの一人という気持ちはあります。
河尻:見てる人は見てるってことなのかもしれませんね。いい仕事を。
小沢:そう言えば、深沢七郎さん(※17)から「小沢くんの犯罪物は、犯人に同情してるねえ」なんて言われたりもしたなあ(笑)。あれは長谷川四郎さんが「自由時間」という月刊誌をいきなり立ち上げたときで、昭和50年(1975)頃だ。長谷川さんのすることだからやむなくお手伝いして、さいわい半年で挫折したんだが(笑)。深沢さんとの対談を載せるべく、長谷川さんとラブミー農場に行ったときのことです。
河尻:深沢さんと言えば、プロのギタリストだったのが、いきなり芥川賞取って流行作家になって、その後なぜか農業を始める−−という、それこそ転職王みたいな人なんですけど、彼の働き方も興味深いですね。
小沢:面白い人だよ。人を食ってるのか、自在というか。その対談のときも途中で「ちょっと…」なんて言っていなくなる。なんだろう? と思ったら、寝てるんだよね(笑)。別室で休んでるんだ。
河尻:対談中に(笑)。フリーすぎますね。
小沢:たぶん体調が良くなかったんでしょう。でも、約束したことだからね、「ちょっと」って消えては休んで、またむっくり起き直ってきた(笑)。捉えがたい人ではありますよ。
河尻:ところで小沢さん、さっき「受け身」っておっしゃいましたけど、それって実は仕事を長く続けられる秘訣なんじゃないないかなと、ちょっと思ったんですが。
小沢:思いがけず出会うからこそ、目を見張っちゃうのかな。「ほー」というようなことだらけでさ。するとしばらくのめりこむっていう感じだね。犯罪者は特別な人でない。そこらの兄貴やおっさんが、そうなってしまう人の世のふしぎだねぇ。
ただそのうちね、だんだんいやになってきちゃったのは、夢を見るんだよ。オレがなんか犯罪を犯して、逃げてるの。目が覚めると、「ああ、よかったー」って(笑)。それもあって佐木隆三と交代したの。
小沢信男さんの著作④:『俳句世がたり』と『時代小説の愉しみ(共著)』。俳句に時代小説。小沢さんの散歩道はいろんな世界につながっている
仕事はご縁ってものだね。出会ったものに興味持っちゃう
河尻:その後も評伝物ですとか、町歩き物ですとか、新しいジャンルを開拓していかれたのはすごいですね。時代に応じて仕事がアップデートされるのはどうなっているんだろう? と。
小沢:まあ、ご縁ってものだろうね。出会ったものに興味を持っちゃう。詩、俳句、戯曲、いろんなジャンルにけっこう垣根があってさ、その垣根をまたいでみる面白さもあるね。ワイフが「運がいい人ねえ」って言うんだけど、折々にだれかが誘ってくれるからさ。犯罪物なんか、ある意味ではちょっとつらかったんだけれど、やっぱり面白さのほうが勝ったんでしょう。
河尻:評伝物のお話でご質問すると、山下清の本(『裸の大将一代記-山下清の見た夢-』※18)。
これはすごい本で。山下清は全国をぶらぶらしながら、住み込みでいろんな仕事をしてたんですね。弁当屋だったり、魚屋だったり。
小沢:面白いよね。店の人が「この人があの山下清だ」なんてことに全然気づかず使ってたわけだから(笑)。何年もかかったけれど、これは楽しく書けた。筑摩(書房)の松田(哲夫)さんのおかげですね。
書いてて思ったのは、この時代って放浪していても茶碗とお椀さえ持ってれば、食べ物がもらえたんだねえ。そういう文化が日本中にあった証拠だよ。仏教の教えが津々浦々に生きていて、持たざる人に与えることが功徳になると。山下清はそれを実証した最後の人みたいなもんだよ。
河尻:どんくさそうでありながら、山下清は実は結構頭いいんですよね。小沢さんは「リアリスト」って書いてらっしゃいましたけど、「戦争で若い男は兵隊にとられるから、地方に行けば自分にも仕事があるんじゃないか?」なんて、したたかに計算しているフシもあって。
小沢:それでいて時流に乗らないんだよ。時代から落伍している(笑)。彼はそうやって自分を通すことを知っていたんだな。深沢七郎さんは、いろんなインタビューとか対談で人を食う人だけど、あの人が食われたのはただ一人、山下清だけ(笑)。
河尻:裸の”大将”ですから(笑)。ところで小沢さん、お仕事はこの立派なMacで? いつぐらいからパソコンで書かれてるんですか。
小沢:はじめはワープロよね。それで平成12年(2000)だったな、「本とコンピュータ」というクォータリーの雑誌に、パソコンを習い始めるいきさつを年4回に書けと。森まゆみさん(※19)と一緒に連載したんだけど。
そのときパソコンを教える係になったのがデザイン担当の人でさ、Mac党なもんで、秋葉原に一緒に行ってMacを買って、それで始めて覚えたの。わからないことがあったら、すぐ電話して聞いてたから、「小沢さん、しょっちゅう電話してくるなあ」なんて言われながら(笑)。
それから何度か買い換えて、これも見立てて買って据え付けてくれる人がいるから、なんとか使えてるんで。とは言っても、使うのはワープロ機能とメールとネットの3通りですよ。このごろはYouTubeも(笑)。まあ、そんなもんだ。でも、本当に助かる。そもそもは「本とコンピュータ」のおかげですよ。
河尻:ネット連載もされてましたしね。手書きとワープロでは、仕事の進め方など結構違うものですか?
小沢:ようするに私はね、直すのよ。直す、直す。だから、原稿用紙のときにはごみがやたら出ちゃって、自己嫌悪になったり。
400字で200字以上書いたところで直すとなると、せっかく書いた半分がもったいないでしょう? だから真ん中から切って貼ったりしてたんだけど(笑)。パソコンとかワープロがありがたいのは、いくらでも直せるからね。『裸の大将一代記』がワープロで書いた最後の作品で、それ以降はパソコン。
河尻:小沢さんは散歩の本も何冊か出されてますけど、歩くのは以前からお好きだったんですか?
小沢:そうね。病気をすると何もできないけど、歩いてるぶんには金はかからないから(笑)。どっかに書いたことあるんですけど、歩いてくたびれても、「丈夫な人はきっとこれくらいじゃくたびれないんだろうな」って、辛抱して歩くわけよね。そのうち丈夫な人より余計に歩くようになっちゃって(笑)。
でもいまはさ、どこもかしこもみんな似たようになっちゃってつまんないよね。あの頃は町が変われば町並みも変わるから、きりもなく歩けたんだけどなあ。
河尻:ちなみに、いまの執筆テーマはなんですか?
小沢:もう終わっちゃってるなあ。はっはっはっ(笑)。でも、やってはいるよね、何がしかは。
ある変わった出版社があって、過激な本ばっかり出すとこなんですけど(笑)、天皇制についていろんな人に書いてもらって1冊にするから、あなたも書きなさいと。10枚から15枚ぐらいなんだけど、それをいま書いているところ。
河尻:全然終わってないと思います(笑)。去年も2冊出されてますから。
小沢:ちょびちょびと書いてきたんだけどね。うん、だから働いてきたんだな、やっぱり(笑)。
聞き手:河尻亨一/取材協力・写真:山田智子
Profile:小沢信男(おざわ・のぶお)
1927年東京生まれ。銀座西8丁目育ち。日本大学芸術学部卒業。大学在学中に執筆した「新東京感傷散歩」を評論家・花田清輝に評価され、以降、小説、詩、俳句、評論、評伝、ルポルタージュなど、多岐にわたる文筆活動を行う。
著書に『わが忘れなば』(晶文社)、『定本 犯罪紳士録』『裸の大将一代記――山下清の見た夢』『東京骨灰紀行』(筑摩書房)、『通り過ぎた人々』(みすず書房)、『本の立ち話』(西田書店)、『捨身なひと』(晶文社)、『俳句世がたり』(岩波新書)など。
ほかロングインタビューを収録した『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』(津野海太郎・黒川創氏との共著/編集グループSURE)なども。
昨年は、小学2年生だったオザワノブヲ少年の作文と絵をもとにつづられた『私のつづりかた――銀座育ちのいま・むかし』(筑摩書房)、デビュー以来の文章より編まれた『ぼくの東京全集』(ちくま文庫)の2冊を上梓。
(注釈)
14.上野のれん会:飲食店や服飾関連店舗、宿泊施設や美術館など上野にある約100の名店が加盟する連合体。1959年(昭和34年)の創立以来、タウン誌「うえの」を毎月発行するなど、上野の文化的伝統の再発見を目指して活動している。
15.佐木隆三(さき・りゅうぞう):1937(昭和12)年、朝鮮で生まれる。小説家。実際の事件や犯罪を取材した、ニュージャーナリズムの手法による社会派小説を執筆。76年『復讐するは我にあり』で直木賞受賞。ほかに『ドキュメント狭山事件』『身分帳』『三つの墓標』など。2015年没。
16.鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ):1922年東京生まれ。哲学者、思想家。ハーバード大学で学んだ後、46年、都留重人、丸山真男らと「思想の科学」を創刊。65年には小田実らと「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」を結成。晩年まで戦争に反対する行動を続けるとともに、大衆文化研究から社会思想史まで、幅広い分野で評論活動を行った。2015年没。
17.深沢七郎(ふかざわ・ひちろう):1914年山梨県生まれ。中学卒業後、職を転々とし、日劇ミュージック・ホールでギターを弾くかたわら、56年、姥捨てをテーマにした『楢山節考』で、文壇に鮮烈なデビューを果たす。65年、埼玉県菖蒲町にラブミー農場を開くなど、異色の活動で話題を呼んだ。ほかに、『みちのくの人形たち』『深沢七郎の滅亡対談』など。1987年没。
18.『裸の大将一代記――山下清の見た夢』:放浪の画家・山下清のぶらりぶらり人生をたどる評伝。「裸の大将」の愛称で人々から愛され、1971年の没後もドラマ化されたり幾度も回顧展が開催されるなど、いまなお人気の"天才画伯"の虚と実に迫る。2000年に筑摩書房より刊行され、桑原武夫学芸賞を受賞。
19.森まゆみ:1954年東京生まれ。作家。早稲田大学卒業後、84年に地元で地域雑誌「谷中・根津・千駄木(谷根千)」を創刊、終刊の2009年まで編集人を務めた。東京の歴史的建造物の保全活動などにも携わる。著書に『鷗外の坂』『「即興詩人」のイタリア』『円朝ざんまい』『女三人のシベリア鉄道』『千駄木の漱石』『「青鞜」の冒険――女が集まって雑誌をつくるということ』など。