2017年06月09日更新

アート集団「studio COOCA」の関根幹司さんに聞くー僕もまだわかってません。この施設が何をすべきか。障害者とは何者なのか?

パッと目を引く色彩豊かな絵やグッズの数々。お洒落な柄のエプロンから、ユニークなものでは納豆柄のポーチまで。そこに描かれているキャラクターはどれもユニークなものばかり。ひとつひとつ、手にとって眺めたくなる魅力で溢れています。

この展示会を主催している団体の名前は「studio COOCA(スタジオ クーカ)」 。神奈川県平塚市にある障害福祉施設です。ここでは、ハンディキャップを抱えた人が、得意なことで活躍し仕事を得ています。

実は今回のインタビューの聞き手である森本は、現在も障害者福祉の仕事をしながら、仕事旅行の大人のインターンに参加させてもらっています。

今回、「本人の持ち味をここまで引き出す秘密を探りたい!」と代表(施設長)の関根幹司さんにお話しを伺いました。そこで少しだけ見えてきたのは、秘密の「答え」ではありませんでした。

「僕も今でも、わかっていないです。この施設が何をすべきなのか。『障害者が何者か?』というのがわかっていないからです」(関根さん)

関根さんは優しい笑顔で、そう教えてくれました。

聞き手・構成:森本しおり
(※写真提供:studio COOCA)

(studio COOCAのFacebookより※以下の写真も)

お情けで「障害者が作りました」「がんばって作りましたんで、買ってください」は謳い文句として絶対使わないようにしようと


普段生活をしている中で、障害者の作った商品に出会う機会ってあるでしょうか。多くの人はあまり無いと思います。それもそのはず、それらの多くは施設内や福祉のバザー、市役所等、「福祉に関連がある場所」で売られることが多いのです。でも、Studio COOCAのグッズは違います。カフェや雑貨屋さんといった一般の人にも身近な場所で買うことが出来るのです。

実際に、今回の聞き手の森本がstudio COOCAのグッズを初めて見かけたのはとある鎌倉の隠れ家風のカフェでした。店内のレジ横に置かれた木目のテーブルの上には、色々な作家の手作りアクセサリーや雑貨が並べられていました。おそらく複数のプロの作家の作品を置いてあるのでしょう。

その中でも、ひときわ私の目を引いたのは、ある缶バッジでした。味のある手書きのイラストと鮮やかな色使い。ブランド名が気になり、裏返すと「studio COOCA 就労継続支援B型」とだけ書いてありました。

衝撃を受けました。何故なら、「就労継続支援B型」とは、一般就労の難しい障害者が通う施設だということを知っていたからです。

「こんなに素敵なグッズを作る施設があったなんて思いもしなかった」
「どんな経緯で作られているのだろう、どうしてここのカフェで売ることになったのだろう」

私の頭の中は、疑問でいっぱいでした。早速、検索してホームページを見ると、どうやらしっかりとしたネットショップもあるようです。それに、近々青山のギャラリーで展示会を予定していることがわかりました。どこをどうとっても、障害者施設のやっていることとは思えませんでした。同じ業界で、どうしてこうも違うのだろうか。私の疑問は、ますます深まるばかりでした。

その出会いから約2年が経ち、私はようやくそれを直接聞く機会を得ました。

(Facebookより)

その売り方には、当初からコンセプトがあったそうです。それがどういうものだったのか? 関根さんにうかがってみると――

どうカッコよく見せるかっていうのは、最初から考えていましたね。「クォリティの高いものを作る」というのは、職員全体で打ち合わせしました。お情けで「障害者が作りました」「がんばって作りましたんで、買ってください」っていうのは、絶対に謳い文句として使わないようにしようと。障害者が作ろうが誰が作ろうが、「これ、カッコいいですね!」って言って買ってもらう、というコンセプトは当初から持っています。

実質、カッコいいんですよ、彼らの生活スタイルは。そこをちゃんとふまえた上できちっとパッケージをすれば、本当にカッコよく提供できるんです。でも実際には職員の手が入ることで台無しにしちゃっているケースも多くて。ようするに、「彼らをどううまく活かすか?」ってことですね。これは普通の商売の方法と同じです。店構えとか、展示の仕方とか、そこに命かかっていますから。(関根さん)


ボンドや絵の具を絞るところから、その人の仕事は始まっている


落ち着いたトーンで話す関根さん。施設に通う人を既成の「障害者」の枠に入れない。彼ら一人一人と向き合う中で、彼らの魅力に注目する。それを当たり前のことのように出来ているから、問題は活かし方になるのでしょう。その土台には、障害のある人達を見守る職員のまなざしが感じられました。

しかし、個性を生かす、自由にしてもらう、というのは言葉で言うより難しいのでは? 実際はハラハラして止めてしまいたくなることもあるのではないでしょうか。この質問に対して関根さんは、

それは、日々葛藤ですね。

例えば、ある人は一日ひたすら紙を切っていました。お札であれ、重要書類であれ、かまわず切っていってしまう。それで、山の様に切ったものを、段ボール板に貼りこんでいく。貼る前にボンドをチューブ一本絞るんですよ。なみなみとそれをたらして、壁を塗るようにボンド塗って、その上に切った紙を貼りこんでいくんです。「ここにボンド一本、要る?」って思うでしょ? 我々健常者側からすると、一般常識で「もったいない」ってなりますよね。

あと、「汚れる」っていうのがあるじゃないですか。手もボンドだらけになりますし、それだけのボンドの量があると、貼っても貼ってもはみ出してくるんです。でもね、彼は段ボールに紙を貼ったときに隙間ができて、段ボールが見えるのが嫌なのね。だからボンドがはみ出しても、その上から上から紙を貼っていく。そうすると、ボンドと紙が何層にもなるじゃないですか。それがね、めっちゃかっこいいんですよ。

それ、出来ないですよ。真似しようと思っても絶対に出来ないです。我々もったいないという規制と、汚すまいという規制が働きますし、周りだってボンド汚れの被害をこうむる。ふつう「やめさせよう」ってなるわけだけど、それをやっていれば「彼は幸せそうだ」っていうのもあって、しょうがないかと。

ところが作品展をやったら、それが数千円で売れた。ボンド一本数百円ですからね。私も最初もったいないかと考えたわけですけど、材料費だと考えれば、全然元がとれているし、作家たちも同じようなことしているよなと。絵描きなら何回も書き直すわけだし、写真家も何100枚撮って発表するのは1枚だったりするわけですからね。それで「まあ、いいか」になったんですよ。

とりあえず絵具全部パレットに出すっていう人もいましたね。それで、使うの数色だったりする。たかだか赤一点入れるのに、絵の具皿になみなみ赤をあふれんばかりに絞ったりして、それももったいない。で、「『もったいない』をどう教えようか?」って職員の間で議論をしました。

その中で「ものを作るとか絵を描くことって、どこから始まっているだろうか?」という話になったんです。絵具を筆につけてまっさらな画用紙とかキャンバスに描き始めたところからではないんじゃないか? と。

つまり、「こうかな?」って頭で考え始めたところからその人の表現活動が始まっていて、その過程の中の最後に描くって行為がある。ということは、絵を描き始める前段階の、「絵具にしよう」「絵具を絞ろう」とかもその人の表現なんじゃないか? だったら、パレットをどう使うかとか筆をどう使うかもその人の表現なんじゃないか? 我々がそこを規制したら、「こういう絵を描け!」って言っていることと同じことだろうとなったんです。それで、規制しないってことになったんですが、洗い流すだけなのはさすがにもったいないから、職員が最後回収することになった。そこに行くまでに5年くらいかかったんですが。(関根さん)


「表現活動とはなんぞや?」という議論をする中で、我々自身も楽になった


「パレットの使い方もその人の表現」ーーそんな発想が無かった私は、新鮮な驚きを覚えました。そして、少しだけ自分を恥じ入る気分にもなりました。普段、自分は本質的でないことについて、細かく言い過ぎているのではないだろうか?もしかして気づかないうちに、もっと大切なものを見失っているのではないだろうか?そう思ったからです。

関根さんとクーカの職員の方々は、どうしてそれに気づけたのでしょうか? 関根さんはその疑問を聞かなくても、汲み取ったかのように話をしてくれました。

(Facebookより)

それまでは我々だって常識の人達だから、葛藤ですよ。そこはね、障害者と健常者の違いです。同じじゃないんですよ。絵具の使い方ひとつにしても、「エレガントだな」と思いますよ。我々もやってみたいじゃないですか、とりあえず全色出してみるとか。でも、我々は「使う色を使う分だけ」みたいに教わっちゃっているんですよね。それで、最終的に足りなかったりする。だから、「我々が教わってきたことが本当に正しいのか」って、もう一度彼らと生活を一緒にする中でもう一度考えるべきなんです。

実際には、我々健常者のやっていることの中にも、もったいないことって山の様にあるんですよね。例えば、僕の親しいコンビニの店員さんも賞味期限が切れたお弁当を持ってきてくれたりしましたよ。「もったいないから、関根さんもどう?」って。あれ、もったいないですよね。

実は、表現活動支援、狭い意味では「アート」とか「芸術」の概念を取り入れたことで、我々が少し楽になりました。ボンドの使い方や絵具の使い方に縛られていたら、こんなに苦しいことはないじゃないですか。それを押し付けられた本人も苦しい。押し付ける側も苦しい。「表現活動とはなんぞや?」という議論をする中で、我々自身も楽になったんです。(関根さん)


もうやめた方がいいんですよ、「障害を直す」なんて発想は。障害者は「健常者の不完全体」ではない


確かに、教わってきたものが正しいとは限りません。それでも同じ常識を教わってきた健常者の間では、それを意識せずとも共有していることが多いように思います。障害者相手にはそれが通用しないことが多いのでしょう。

障害者相手でも「常識だから」と押し通してしまえば葛藤は生まれません。しかし、関根さんとstudioCOOCAの職員の方々は、そうした時に立ち止まり障害者の言葉に出来ない声にも耳を傾けたのでしょう。そして、自分自身に向き合ってきた。それを続ける関根さんは、何かを問い続け、探し続けているように見えました。関根さんは話を続けてくれました。

当時から、わからないんですよ。今も、明快な答えを持っている人はいないと思うんですけど、「こういう施設が何をやるべきなのか?」と。

福祉の中には、「療育」とか「治療」とかいう言葉があります。それは「障害を直す」という意味です。「直す」ということは「健常者にどう近づけるか」とか、「健常者にどうなれるか」という発想なんです。「就職をさせるから、障害を直す」という目的は一応あるんだけど、成果があまり出ていないですよね。

ただ、30年前よりは企業側に理解が出てきたので、少し就職率が高くなりましたね。それでも、「本当にそれでいいのか?」ということは、誰もわかっていないです。もうやめた方がいいんですよ。「障害を直す」なんて発想は。それをしている限りどうにもならない気がしますね。

僕も今でも、わかっていないです。この施設が何をすべきなのか。「障害者が何者か」というのがわかっていないからです。そこだと思います。

障害者は、「健常者の不完全体」とかじゃないんですよ。「完全体」として健常者を置いちゃうから、違っちゃうんです。それを目標としてしまうから、どうにもならなくなっちゃうんです。「彼らは何者なのか?」をつきつめていった先に、多分、我々が支援すべきことっていうことが見えてくるんです。それを今、試行錯誤しているところです。施設が「何をやりなさい」って決まっていないのは、厚労省もわかっていないからでしょうね。多くの施設は、隣の施設がやっていることを真似しているに過ぎないんです。

そうじゃなくて「何をしなければならない」ということが無いからこそ、もっと自由に、今までになかったことにチャレンジできる場所なんです。彼らが何者だかも、わかっていないんだからチャレンジすべきだと思います。それをうちが出来ているとは言い切れないですけどね。(関根さん)


関根さんのお話を聞いていて、私がstudio COOCAの作品を見て、惹かれた理由が少しずつ分かってきた気がしました。

作品から「作り手らしさ」が伝わってきたからです。それは、誰かに規制されては世に出なかったはずの作品です。一度そこで立ち止まり、自らの教わってきた常識もう一度問い直す。その作業を繰り返すからこそ、芽をつみとらずにすんだのでしょう。それが、形になったのがこの作品達ではないでしょうか。

お話を聞いて、改めて作品を拝見しました。それはまるで、彼ら自身のカケラのようにも見えました。もっとも、作品から垣間見えているのは彼らの生活のほんの一部なのでしょう。「彼らの生活スタイルのカッコよさ」、絵具の使い方一つから見える「エレガントさ」は、まだまだこんなものではないはずです。

今日も、studio COOCAには障害者が来ます。一人一人違う持ち味を出したり、上手く出せなかったりしながら。彼らもまた、何かを模索しに来ているのかもしれません。果たして「彼らは何者か?」。関根さんの、studio COOCAの挑戦はまだまだ続きそうです。

(Facebookより。Studio COOCAの仲間たちとの一枚。写真一番右が関根幹司さん)
ロングインタビュー: 2017年06月09日更新

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