『離島経済新聞』(愛称:リトケイ)というメディアがあります。日本に400以上もある有人離島の様々な情報を、そこで暮らす人にフォーカスしながら発信を続けているウェブ&タブロイド紙。
2010年にこのメディアを立ち上げた鯨本あつこさんは、イラストレーターを目指して上京、自分にとっての「うれしい」を探しているうちに、なぜだか編集者になり、ついには会社まで作ることになってしまったそうです。
「リトケイ」はなぜ誕生したのか? どんな風に仕事をしてきたのか? 鯨本さん自身がこれまでの職業体験を振り返ることで、「働くってなんだろう?」を考える新連載です。
職業は編集者。社長、イラストレーター、母、妻といった仕事もしている
私の主な肩書きは、NPO法人離島経済新聞社(以後、リトケイ)の統括編集長で、小さな制作会社の社長、事業やメディアのプロデューサー、原稿書き、イラストレーター、母、妻といった仕事もしている。
この原稿のお題は「会社をつくったこと」なので、リトケイをつくった経緯を自分の経歴をまじえながら説明したいと思う。
リトケイは今から6年前に仲間と一緒に立ち上げたメディアで、日本各地に400島ほどある有人島の営みを取材したり、記事にしたり、講演したり、企業や自治体と島に関する仕事をしたりしている。
社名は某経済新聞社と似ているぶん立派だが、パートを含めて常勤スタッフは6人。三軒茶屋の片隅にオフィスを構える、とても小さな会社である。
リトケイを設立したのは2010年10月だが、実のところ、その半年前までは、自分が会社をつくることになるとは思ってもみなかった。
その年のはじめ、私は3年ほど勤めていた経済系出版社との派遣契約を終えフリーランスとなり、広告制作の編集業務を請け負うようになっていた。
私は九州の田舎育ちで、上京したのは24歳の頃。上京した理由はセツモードセミナーというイラストレーション学校に通うことだったので、昼間は派遣社員として日本橋の出版社で広告編集をしながら、夜は曙橋にある学校で絵を描いていた。
広告編集をしていたのは、近年ではオンラインが絶好調の老舗経済誌で、正社員のみなさんは慶應・早稲田・一橋大学出身で高学歴。一方、私の最終学歴は美容専門学校で、ふとした縁から編集者になったような人間である。
正統感が漂う日本橋の社屋に通うことには、場違い感が否めなかったが、蓋をあけてみると、東京の銘酒場を教えてくれる上司や同僚に恵まれ、仕事も覚えることができたので、経済誌の広告編集者らしくなれていた。
その会社に入るまで、自分の頭のなかを占領していたのは、美容やらファッションやらアートやらお酒やらばかりだったので、経済誌で見かける「チャネル」と「チャンネル」の違いさえ知らなかった。
でも、毎日8時間、会社にいる時間の限り経済誌のことを考え、取材先で企業の偉い方や、大学や政治家の先生などのお話しを伺ったりしていると、未知の世界と思えたジャンルも身近になってくる。
なにごとも3年続ければそれなりに慣れるわけだ。27歳になる頃にはなんとなく経済に慣れて、仕事も楽しくなっていた。
「うれしい」の多い仕事ってなんだ?
一方、自分が上京した理由はイラストレーターであり、27歳頃にはイラストの仕事も少しはいただけるようになっていた。
イラストレーターになりたいと思いはじめた頃は、自分が描いたイラストが雑誌に載ったらさぞうれしいだろうと思っていた。でも、実際に自分のイラストが載った雑誌を本屋で見かけても、想像していたよりも感動が薄かった。
イラストの仕事がいまいちだった理由をいま考えてみると、自分のなかでの「うれしい」が物足りなかったからのように思う。
たとえば、雑誌のイラストを描く場合、編集者やアートディレクターからの発注を受けて、求められるイメージを絵に描いて納品する。それなりに楽しい作業ではあるが、雑誌づくりの一部を担当するイラストレーターと、雑誌づくりの全体を担当する編集者であれば、自分にとって「うれしい」が多いのは編集者だと気づいた。
イラストレーターよりも編集者にしようと思った頃、もうひとつ気づいたことがあった。
昼休みにデスクでお弁当を食べながら『ほぼ日刊イトイ新聞』を眺めていると、ほぼ日で働く人たちがわいわい楽しそうにしている雰囲気が目に止まった。それから手元にあった経済誌に目を移すと、数人の若者が立ち上げた小さなベンチャー企業が取り上げられていて、スタッフみんなが「仲間」的な雰囲気で働いている姿を、うらやましいと感じた。
あくまで私の価値観だが、取材でいろんな会社を見てまわり、経済誌を眺め続けるうちに、会社の大小や有名無名かは、働くことの楽しさとはイコールにならないと思い至っていた。
有名な会社でも潰れるときは潰れるから、大企業に入れば安心というわけじゃない。高い給料をもらっても、心身が壊れてしまえば終わり。いくら自分が楽しくても、大事な人が悲しむ仕事なら避けるべきで、むしろ人生の大部分を当てる仕事なら、大事な人に喜んでもらえることがしたいものである。
そんな気づきを組み合わせていくと、自分がやりたいのは編集者で、できれば仲間と言える人たちとわいわい働きたい。さらに、家族が喜んでくれることなら最高ということになった。
刺激とお酒の日々からメディアが立ち上がる
そうなると、それが叶う仕事はなんなのか?
手がかりを探して、前述のベンチャー企業について検索してみると立ち上げメンバーが通っていた社会人スクールを発見。言葉を変えて検索すると、自宅の近くで開催されていることと、翌週に説明会が開かれることがわかった。
とりあえず説明会に出かけると、そこには編集者とか、デザイナーとか、広告代理店の方とか、楽しそうな人たちが集まっている。ここに行けばヒントがある気がして、受講を申し込んだ。
それから先に何があったかというと、まず訪れたのは刺激とお酒の日々だった。
土曜日の午後に20人の同級生(ほとんどが社会人だった)と著名なクリエイターの話を聞いて、その後、スピンアウトディスカッションという名目で飲み会を開催。2次会、3次会になるうち人数が減るのだが、最後は私を含めいつも同じ4人が残っていた。
実は、リトケイを構想して、立ち上げたのはこの時の4人である。編集者が2人、アートディレクターが1人、デザイナーが1人。各々がスキルを持っていたので「何かメディアでもつくりたいね」という話が持ち上がり、最初は「日本にある良いものを紹介するメディア」みたいなことを思いついた。
ただ、そんなメディアはごまんとある。今さらつくるべきなのか、焼酎のロックで乾杯しながら(たまたま4人とも焼酎ロックを好んでいた)、ああでもない、こうでもないと語り合い、酔っぱらいながら書き留めたアイデアを、フリーランスで時間があった自分が絵にまとめ、それをもとにアイデアを揉み込んでいった。
そんなとき、同級生に「島に移住する」というお姉さんがいたので、私たちは島に遊びに行くことにした。
広島県にある大崎上島というその島のことを、私はその時にはじめて知った。事前情報収集にネット検索してみると、濃厚な情報にたどり着けず、どんな島なのかあまりわからないまま島に出かけ、そこで「島っていいかも!」と気づいた(島の何がよかったのかはvol.2で記します)。
ふと「離島」というキーワードを得た私たちは、その後、離島専門のメディアが日本にほぼ存在しないことを知り、「離島経済新聞社」という名前を思いつき、スクールに通いはじめた半年後、2010年10月に離島経済新聞社を立ち上げた。
離島経済新聞社は2014年にNPO法人へ移譲したが、それまでは株式会社で運営をしていた。資本金はみんなの持ち出しで、貯蓄の少ない自分は両親にSkypeでプレゼン。小さな会社を営む事業主家系だったことが幸いし、必要資金の借用、いわゆる資金調達に成功した。
険しい道のりも仲間と笑って歩けるなら楽しい
なんとなく楽しい空気で会社を設立したまではいいが、4人のプロフィールをおさらいすると、編集者とアートディレクターとデザイナーで、フリーランスは自分のみ。経営経験者も不在。クリエイティブスキルは高いので、小さいながらも注目を集めるメディアができたが、肝心の「どうやって売り上げを確保するか?」はいたって安易だった。
そういう会社がどうなるかというと、当然、儲からない。メディアをつくるにはある程度のお金がかかるが、売り上げがないので、私自身がリトケイから給与をいただくまでには4年かかり、その間は平行して請けていたフリーランス仕事で稼いだお金と、借り入れと、身内に迷惑をかけるかたちで暮らしていた。
会社を軌道にのせるため、がむしゃらに動き、生きるための仕事をこなす毎日は、寝る時間も休みもなく、Macを叩きながら寝落ちることもめずらしくなかった。
普通なら会社をたたむ判断も賢明だと思われる期間が続いていたものの、どうして辞めなかったのかを考えて見ると、すでに顔見知りが増えていた島の人々に「やっぱりダメだったんだ」と思われたくなかったことと、一度も好転しないうちに法人をたたむのが癪だったことと、なんだかんだ応援してくれる人がいたことと、私と同様に無報酬で何百時間もの時間を費やしてきた仲間と一緒に、まだまだ仕事をしたかったことなど、いくつか理由がでてくる。
一方、部屋のすみっこで膝を抱えるような日があっても、仲間と会えば、わいわいきゃっきゃと騒いでいたし、喧嘩することがあっても、酒を交わせばゲラゲラ笑えていたから、諦めるまでの理由は見つけられなかった。
しばらく儲からなかったけど、「離島専門」と「若い女性が企業している」ことが珍しかったので、メディアに取り上げてもらうことも多く、離島地域の自治体や企業、本土の企業、行政の方々と知り合う機会も多かったので、そのうち日本中の島々との独自ネットワークらしきものができ、収益をともなう仕事も増えてきた。
メディアをつくりたいだけなら、会社をつくらなくてもできる。けど、わざわざ会社にした理由をひとつ挙げるなら、一緒にいたい仲間たちと、同じゴールを目指して働いていたかったからで、もしも会社をつくってなかったら、儲からない時点で自然消滅していたような気もする。
軌道にのったとはいえ、会社としてはまだまだやるべきことも課題も多い。でも、険しい道のりでも仲間と笑って歩けるなら楽しいもので、〆切で死にそうなときも、他愛のないことで笑えている。
気がつけば、編集の仕事ができて、仲間と仕事ができて、仕事をすることで家族にも喜んでもらえているので、会社をつくって続けてきたことを、よかったなと思っている。
続編はこちら→
鯨本あつこのシゴト旅 vol.2ー仲間は東京、私は沖縄、出張先は離島ー
執筆者プロフィール
鯨本あつこ(いさもと・あつこ)
1982年生まれ。大分県日田市出身。NPO法人離島経済新聞社の有人離島専門メディア『離島経済新聞』、タブロイド紙『季刊リトケイ』統括編集長。一般社団法人石垣島クリエイティブフラッグ理事。地方誌編集者、経済誌の広告ディレクター、イラストレーター等を経て2010年に離島経済新聞社を設立。
編集デザイン領域で、地域メディアのプロデュース、人材育成、広報ディレクションを担当。世田谷区三宿エリアの活性化事業「世田谷パン祭り」、奄美群島のフリーペーパー「奄美群島時々新聞」、石垣島にゆかりのあるクリエイターを掘り起こす「石垣島Creative Flag」等のプロジェクトに携わる。2012年ロハスデザイン大賞ヒト部門受賞。2013年TEDxTokyo登壇。美ら島沖縄大使。
『離島経済新聞』