2023年03月01日更新

一族経営で仲がいい。鮮魚「山長」先代の昔言葉は生きがいいー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.48

『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は鮮魚の「山長」へ。(編集部)

創業は大正5年。私の実家とかみさんの実家、それぞれの頭文字をとって「山長」にしたの


よみせ通りの団子坂の近いところに、山長という魚屋さんがあって、いつも買い物客の人だかりだ。毎日来る近所の常連さんもいれば、谷中散歩の帰りに何か買っていこうという人もいる。

古いことをご存じの先代、窪田嘉徳(よしのり)さんに聞く。「帽子を取った方がいいの?」「マスクはどうすんの?」と気を遣ってくださる。今日はお仕事は手伝わなくていいんですか。

「ほんとは手伝わなくちゃいけないんだけど(笑)」

——山長さんはいつからやっておられるんですか。

「大正5年、1916年かな。長谷川長吉さんという人が創業者。そのころはここに藍染川という川が流れていて、飯台を川で洗っていたそうです」

――それにしても海の物を扱うのに、山長というのは。

「昔は魚長といったらしいんだけどね。ここはかみさんの実家なんです。ところがかみさんはもう26年も前に他界しちゃってねえ。とてもよく働きました」

――そうするとその長谷川さんの娘さんが奥さまで、お婿さんがよみせ通りの店を継いだわけですか。

「それはいろいろあるんです。この話をすると長いんです。家内の家は男4人女4人の8人兄弟なの。それで長吉さんの後、一番上のお兄さんがお店を継いでやってた。でも次男と三男は胸の病で死に、四男はかわいそうに、昭和20年3月の空襲の爆風で亡くなって」



――ああ、その話聞いたことがあります。よみせ通りのこの前が日本初のリボン工場で、そこで海軍さんのセーラー服や陸軍でも帽子など軍服につけるリボンを作っていたので、軍需工場ということで3月4日に爆弾を落とされ、近所の人もたくさん亡くなられたのでしたね。悲しいことです」

「それは僕の知らない以前のことだけどね。それで四男も亡くなって。後の姉妹は嫁に行って、今もみんな元気にしていますが。それで、次女の家内が後を継ぐことになったの。

私が昭和48年にここを引き継いだときに、魚がつく店名はイヤだと思ってね。私の生家は山形屋という肥料問屋だったんですね。こっちも8人兄弟だ。昔は8人なんてざらにいましたよ。それで私の実家とかみさんの実家、それぞれの頭文字をとって山長にしたの。覚えてもらいやすい名前で、河岸にも一軒しかなかったな」

お客さんが言うんですが品数多くて品物がいい。でもそんなに高くは売らない


――へえ、肥料問屋って。

「肥料たって肥じゃないよ。昔は煮干しとか、鰯の小さいのを安かったから、畑にまいて肥料にしてたんです。店は日本橋の三越の前のはんぺんの神茂(かんも)さん、ありますよね、その突き当たりにあって江戸時代からやっていたらしい。海苔の山形屋さんもたしか親戚ですよ。うちの父の伯父には何番目か知らないけど、ロシア革命に黙って行って、そのまま帰ってこなかったのがいたそうです」

――へえええ。

「今は鰯も高級魚になって肥料なんかにできないけど。私は昭和7年、品川の生まれです。目黒不動のそばだね。近くの目黒川も最近台風で水が出たけど、あの畔のサクラはきれいだよ。屋形船が通るんですよ」

――じゃあ、最初から魚関係の仕事なんですね。

「いや、高校を出て最初は沖電気に入ったの。面倒くさがりでね、当時は高度成長の売り手市場で、学校から東芝か日本電気か沖電気かどこがいいかと聞かれたけど、東芝は武蔵小杉でそもそも遠いしね、日本電気は田町だから駅から歩いて遠い。

沖電気は品川の駅前にあったから、これは寝坊しても行けるやと思ったの。それは昭和23年かな。だけどその頃はストライキばっかりやっていて、仕事になんない。給料のかわりに石鹸と羊羹を渡されて、それを売れって言うの。それで3年くらいで嫌になってやめたの。

そのあと、おじいさんの妹が嫁にいった品川の『ととや』という大きな魚屋に奉公したら、そこに帳簿つけにきていたのがうちの家内。それで一緒になった。結婚したのは昭和33年か、そこいらかな。かみさんは昭和4年生まれ」

――それでここに来られたのが。

「昭和48年。ここをやっていた長男が亡くなったので、後を継がないかと。そろそろ独立しようかと思ってね。あのころは魚屋が多くて、同じ支部で30軒もあったんですよ。その付き合いもあったが、いまはないですね」

――へえ、いま、根津なんか魚屋さん、少なくなってしまいました。私も山長さん、子供の頃から覚えていますが、どうしてこんなに繁盛してらっしゃるんでしょう。

「お客さんが言うんですが、品数多くて品物がいい。でもそんなに高くは売らない。僕の頃も安かった。そのころは魚がたくさんとれたんです。いまはとれない。秋刀魚なんて今年はこの前まで取れなかった。それで一本600円もしたんですが、きょうは300円と350円です。

昔は秋になると今日も秋刀魚、明日も秋刀魚、というくらい毎日食べていましたがね。このあたりで魚が好きだなあと思うのは服部区長。すぐ前の横丁に住んでいるからね」



――たしかにアジの刺身が400円で、中落ちが450円。本郷のうちの方もいい魚屋さんがあるのは今時ありがたいのですが、ずっと高いです。

「長男の総(さとる)が人が良すぎるんだね。親からするともう少し高く売ればいいのに、と思いますが、お客さんに悪いから、とそのまま。そのまた息子が2人、僕の孫だね。いっしょに働いています」

もう70年近くやってんだからね。よくこの手が保ちますよ


――ここの前のホテルのところ、以前は何でしたっけ。

「キジマという肉屋さんでした。その前は「オトメパン」という給食に出す大きなパン屋さんでした。うちもね、幼稚園や保育園などの給食用とか、水道橋の都立工芸高校にも長男が配達しています。夜間部がありますから、働いて、そのあと来る生徒に給食を出すんですよ」

――それは大事なお仕事ですね。今はどんなお仕事されていますか。

「外でアサリとシジミを量り売りするのが仕事です。シジミは宍道湖。あるいは青森。アサリは本当は千葉のがうまいんだけどね。ハマグリは千葉か、四日市のほうの養殖。いまは産地をきちんと表記しないといけない。昔はパイ助一杯いくらといったもんだがね。竹で編んだ籠ではかってた。

まあ、暑かったね、今年の夏は。店の中はクーラーがあるんだが、店の外にはないからね。ま、冬もたいへんだけど、冬は温かいお湯に手をつければしのげるんだがね」

――ご自分では何のお魚が好きですか。

「マグロだね。うちの生の本マグロはおいしいですよ。ほんとはいまごろはカツオですね。戻り鰹、でも今年はあまり取れませんよ。ガソリン代が上がっているから取れなそうだと船を出さないんだね。昔は生きているしこ鰯を撒いて、一本釣りをしたものだがね。

あまり長いものは食べないね。鰻とか、太刀魚とか、自分で練習してやっと最近、穴子が食べられるようになりました。

隣の和食の居酒屋、『彬』は次男の昭がやっている。僕の名前がむずかしいのでテストの時とか、お習字もたいへんだった。だから息子たちには一字で簡単なのにしました。最近は魚屋より、飲み屋の方の取材が多くなりました」

――ご自分でも呑まれるのですか。

「はい。ここは道を挟んで向こうが谷中、うちは千駄木三丁目南部町会。町会の方たちと『ときわ』とか、焼き鳥屋の『慶』とか『にしきや』には行きましたがね、コロナになってからは家にいます。

自分でなんでも作りますよ。魚を煮たり焼いたり、料理は簡単だもん。白菜の塩漬けね。茶碗蒸しも中身何もなくてもおいしいですよ。昆布をつけておいたものを煮立たせて、けずり節を入れて出汁をとって、卵かき混ぜてチンすりゃできるもん」

――へえ、すごい。何か休みの日にご趣味はないんですか。

「ないですね。商売が好きですから」

――まさにお魚一筋の人生ですね。

「そうです。でも心配はありますよ。お客さんが魚を冷蔵庫に入れ忘れないといいなあ、なんて。もう70年近くやってんだからね。よくこの手が保ちますよね。前は一人で魚をさばくのもやってたんです」



店の間口が広い。右の方はたくさんの刺身。左手にはイタリアの魚屋さんのように、ショーケースの氷の上にさまざまな種類の魚が並んでいる。まるで海を泳いでいるようだ。

「うちは惣菜はやりません。次男の店のほうでは、夕方3時半ごろから並べていますが。暮れになると、注文で鯛を焼きます。仕舞ってあるU字溝を出してきてね。そうするとほかのお客さまが、「あらいい匂い、私も欲しいわ」とおっしゃる。

うちの息子は優しいからね。刺身も作るし、煮魚にするならはらわたは取るし、刺身も生きがいいから次の日でも大丈夫です。そのときはツマを余分にちょうだいと言えば、大根の細切りとかを別にくれますよ。お寿司をつくる時には、ガリくださいといえば、ガリもくれますよ、うちの場合はね」

――とにかく一族経営で仲がいいんですね。仲良く商売をやる秘訣は?

「売れることでしょうね」

なんともいえない、むかしの東京の言葉。丁寧に話してくださって、さっとキャップをかぶって店に戻られた。

帰りにアジと中落ち、刺身を二つ、鯛のあらは200円、それと秋刀魚を買った。心優しい息子さんは私が300円のを頼んだのに、「大きい方を持ってって」と入れてくれた。



その夜は息子と新鮮でおいしい魚づくし。今年、秋刀魚は初めてだった。秋刀魚苦いかしょっぱいか。佐藤春夫の詩がなつかしい。大分で買ったスダチを振って、大根をすりおろして。
なんとか顔を覚えてもらえる常連になりたい。


取材・文:森まゆみ

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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/



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