2020年11月18日更新

「やりたくない仕事はやれない人」になってしまった富永喜三さんが味噌商を継いだ理由ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.23

作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回は根津観音通りの奥に佇む「味噌商 秋田屋」へ(編集部)
 
根津観音通りの奥のほう、右手のガラス戸に、綺麗な明るい茶色い布の暖簾が揺れている。この店に気がついたのはもう20年ほど前なのだが、やっているんだかいないんだか、「店ですよう」と自己主張する佇まいではなく、ひっそりした感じなのである。そのときには、ここで「しょっつる」という発酵した魚醤を買った。
この前、またふらりと店を覗いたら、おいしそうなお味噌があった。それを買って帰ると、本当においしかった。

祖父はお店を親父に任せて、自分はまた別の仕事を始めたりね


お店の三代目、富永喜三(よしみつ)さんにお話を聞く。
「これはみちのく味噌といって、秋田の人がいかにも好みそうな、やや甘めの味噌です。これは4種類の味噌――赤こし味噌に白い粒の味噌3種――を、粒を生かしながら合わせています。合わせるのには、そこにある餅つき機を使います。味噌を作ってもらっているのは、神奈川(横浜市三枚町)にある味噌蔵ですね」

――ところで、あそこの壁の上のほうに貼ってある写真、まわしをつけたお相撲の格好をされているのはどなたですか。
「あれは僕の祖父で、初代の板垣良吉です。秋田のお祭りで取った時のものですね。元々は秋田の神岡町神宮寺(現・大仙市)の出身です。内陸の横手市のそばですね。
祖父は、神宮寺にある醤油工場で、味噌や醤油をつくっていたのですが、知り合いのつてで、終戦前に神奈川に出てきて、食料安定のために味噌蔵を回って味噌や醤油の品質検査をする仕事をしていたようなんです。そこで終戦を迎えて、そのあと、昭和30年に根津で味噌の小売りを始めたと聞いています」



――おじいちゃんは、何年生まれなんですか?
「何年生まれなのかな。僕が学生の頃、たしか21歳の時に93歳で亡くなったんですが……。僕は1970年生まれなので、1991年に亡くなったことになるのかな」

――まあ、長生きでいらしたんですね。ということは、おじいさんは1898年、明治31年生まれで、ご存命なら122歳ということになります。
「ほああ、そういうふうに計算するんですか。
祖父は、戦争にはいかなかったといってました。奥さんはハナさんといって、大正生まれで、年が離れてましたね。同じく秋田の出身です。
当時は平塚に家があったんですが、母の栄子が先に祖父母の家の養女になって、そこに父の六郎が婿に来たんです。親父も同郷で、祖父に呼ばれて上京し、横浜ゴムに就職したんですが、そのうち婿に入って味噌の仕事を手伝うようになった。
良吉爺さんは世話好きな人で、郷土愛というか、秋田の若い衆を東京に呼び寄せたりしていたみたいです。それで、父の兄たちも祖父が秋田から呼びよせて、大森のほうに店を持たせてやったりしていましたね」

――そういうお話はあちこちで聞きますね。チェーン・マイグレーション(芋づる式移民)と言うそうです。本郷の旅館はほとんど岐阜の方だし、お豆腐は埼玉屋さんとか、お風呂屋さんは富山、石川の方が多いですよね。
では、ここにお店を開いたのはいつ頃なんでしょう?
「昭和30年には東京で味噌を売り歩いていたのですが、店を構えたのは僕の生まれた1970年、50年前です。祖父も70歳は過ぎてましたね。
なんでも、その頃、谷中に間借りしていたらしく、そして大工の棟梁がここの土地が空いているというので、そのお世話で家を建ててもらったらしいです。大工さんは秋田さんといって、でも、茨城の出身なんですが(笑)」

――どんなおじいちゃんだったんですか。
「僕は3人兄弟の一番下なんですが、孫には甘かったですね。祖母も輪をかけて甘かった。だいたい、母が養女で甘やかされたお嬢さんで、祖母の方が一家のまとめ役で母親みたいだった。祖父母、父母、僕ら兄弟3人がこの家にいたんですから、人口密集でした。

祖父はお得意さまを開拓するのが好きで、広げるだけ広げて、あとはお店を親父に任せて、自分はまた別の仕事を始めたりね。代々木のNHKのあたりに、サラリーマンの方相手にスーツとかカバンとか売ったりしているようなテナントがあったんですが、その並びで「ふじ」という自然食品のお店を始めました。まあ、自然食品の先駆けかもしれません。僕も小さい頃、リュック背負って、祖父について荷物運んだりしてお手伝いをした記憶はあります。もう千代田線はできてましたね」

――そうすると、お父さんは、家付き娘とやり手のおじいちゃんと、大黒柱のおばあちゃんの間で、苦労されたんでしょうねえ。
「ま、そういうことです。もともと、おじいちゃんは健康意識が高いというか、文京区に掛け合って、『学校給食に日本食を出そう、味噌汁も出そう』と迫ったりしていましたね」

――それは実現したんですか?
「いえ、全然(笑)」

親父からは「お前の好きなようにやれ」とだけ言われて


――それは残念でしたね。そうしたら、お父さんはそのあと、地道にお店を継いでいらしたんですね。
「そうですね。だいたいこの店の50年は、祖父が最初の20年、父が次の20年、僕がこの10年くらいやってきた、という感じでしょうか」

――で、どうして後を継いだんですか。
「良吉爺さんはうちの長兄を跡取りに考えていたようで、兄は大学卒業前にこの店を継ぐようにと言われたようなんですが、断ったんですね。大学を出て、イベント会社に勤めました。次兄は高校を出てすぐ、仮枠大工として働き始めて。
僕は、大学は経済学部で、卒業していったん就職したんですが、3カ月ぐらいでやめたんですよ」

――へえ、なんで?
「今考えると、浅はかだったのかもしれませんね」

――でも結局、大正解なんじゃない? どんな会社に勤めたんですか?
「テレビ番組をつくる制作会社に就職したんです。カメラマンと音をとる録音さん、映像と音をつくる制作会社ですね。でも、みなさん、大学の時からすでにカメラとか、音のこととかにのめり込んでやってきている人たちなのに、僕は面白そうだなーくらいの気楽な感じで就職してしまったので。その後は定職につかずに、アルバイトしながらぷらぷらしてました」

――でもねえ、私も若い人たちと話をすることも多いけど、概して勤めている人のほうが苦しそうよ。フリーランスの子たちのほうが、お金がなくてもなんか元気で。それで、どんなアルバイトをしたんですか?
「いろんなことをしましたよ。長野の農家でレタスや白菜の収穫とか。野球のグラウンド整備、ビルの窓拭きなんかもやりましたね」

――わあ。怖そう。
「そんなことないですよ。下を見ないで、目の前の窓ガラスだけ見ていれば。窓ガラス清掃の仕事は楽しかったです」

――何が面白いんですか。
「人間関係ですね。そこに来ている人たちは確信犯で、みんな何かほかにやりたいことがあって、そのためにアルバイトで稼いでいる人たちなので。登山家だったり、探検家だったり、ボクサーとか、ギター弾きとか……」

――ところで、奥様とはどこで知り合いましたか。
「通信社の写真部の夜のバイトです。彼女はほかの部署だったんですが、そこで知り合いました。
それで、祖父が亡くなり、親父の代になって、祖母が倒れて入院して……誰かが手伝わなくてはいけない状況が生まれて、バイトを掛け持ちしながら、ここを手伝っているうちに……という感じです。母も59歳で亡くなりましたし」

――じゃあ、お父さんから、お前、ここをやってくれよ、と言われて?
「いえ、自分から、この店をやりたいと言いました。逆に、両親からは反対されましたね。やめたほうがいい、と。儲かる仕事じゃないですから。でももう、やりたくない仕事はやれない人になってしまっていたので(笑)。



――この仕事は飽きないですか?
「親父からは、お前の好きなようにやれ、とだけ言われて、最初は見よう見まねで。ただ、祖父や父は実際に味噌蔵に行って、味噌造りからやっていましたが、僕は商売のほうからなので、常に勉強というか、飽きはしません。日々、目標みたいなものが次から次に出てくるというか。

親父のやっていることをできるようになるまでにも10年ぐらいかかりましたし、そのあとは、もう少し自分のやり方で変えてみたりしながら。たとえば、季節に合わせて調合のやり方を変えるなど、よりお客さまの好みにあうような、安心で安全でおいしい味噌を目指しています。お客さまからは『前と違うじゃないか』と言われてしまうこともあるんですが、そのあたりの折り合いをつけながらやっていくことが今、一番飽きないことですかね」

――50年前からのお客もいるんですか。
「いますね。やっぱりあちこち配達にも行ってたんで」

――このあたりのお店では?
「昔からのお店だと釜飯の松好さん、根津銀座の新三陽さんとか。新しいお店では天ぷらの福たろうさんとかですね」

――コロナの影響はどうですか?
「飲食店からの注文は少し減りましたね」

――こちらにあるお味噌は?
「これは、神奈川県の久里浜にある中華料理屋さんに発送する分です。おじいちゃんが開拓したお店ですね。それで、そこのお店で修行した方が、次に自分の店を出すときにまた続けて注文してくださったり……そうやってつなげていただいて」

――あ、中華料理なら、回肉鍋とか、キャベツと玉ねぎと豚肉の味噌炒めとかね。
「そうですね。料理によって味噌の種類を使い分けたり、季節によって使い分ける方もいますね」

奥での仕事が一段落した奥さんの綾さんも出てきて、話に加わってくれた。
「私は新潟の魚沼の出身なので、ここの味噌はちょっと甘めに感じますね。夏場だと、オクラのお味噌汁とか、なめことか、山芋とか、とろとろしているのが好きです。
私は『ずっと店にいない店番』。奥で何かをしながら、お客様が見えると出ていくというスタイルなので、それにはなかなか慣れませんね(笑)。実家は、母が美容院をしていたので、いつも家がバタバタしているのは慣れてるんですけど」

「親父とふたりでやっているときは、こちらのお店はほぼ閉めた状態で、料理屋さんとかへの配達をメインにしていたので、午後戻ってきて、夕方ちょこっと店を開けるという感じだったんです。でも、結婚してから、この10年くらいは、朝から店が開けられるようになりました」と喜三さん。

息子さん3人と娘さんがひとり。4人のお子さんを育てている。
「僕は、店は継ぎましたが、名前は妻のほうの姓になったので、富永なんです」

広告宣伝は特にしていない。
「根津神社の下町まつりに出店を出させてもらったぐらいですかねえ」
嫌いなことはしない。足ることを知ってのんびり生きる。そんな生き方はできるのだ。そして夫婦の相性も大事。

どうしたらもっとお味噌が売れるだろ、「なすの油味噌炒め」「シシトウでもピーマンでも」「鮭のちゃんちゃん焼き」「牡蠣の土手鍋」「何といっても豚汁」「とんかつに味噌だれ」「グラタンにお味噌入れてもおいしいわね」などと盛り上がってしまった。

そのほか、塩麹や醤油も売っている。今日は、みちのく味噌に、黒っぽい赤だし味噌を買って帰る。鰹節で出汁をとり、豆腐と青ネギだけで作った味噌汁。ご飯と一緒でなく、これだけで味わいたいと思うくらいにおいしかった。

取材・文:森まゆみ

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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/


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