2019年08月21日更新

谷中・桜木に一軒残る藤屋の豆腐は正直な手作りの味ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.14

作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に"ずーっとあるお店"にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回は谷中・桜木に一軒残る藤屋豆腐店へ。(編集部)

高校の頃から売りに出ていた。路上で勉強できることはたくさんあります


上野の桜木町、言問通りに面して、藤屋という豆腐屋がある。

久しぶりにお訪ねすると代が変わって、娘さんが「古いことならお父さんのほうがいいわよね」と、先代の高橋敬(ひろし)さんを呼んでくださった。「店も狭いしなんだから、上に上がってください」と言うので、後についていった。

「森さんが上野桜木特集で来てくれたのは、もう30年以上前だね。私はあの頃は50そこそこの働き盛りだったが、もう83歳。カミさんはなくなるし、私もあちこち具合が悪くて、豆腐の仕事は娘婿にやってもらってます。もう譲ったからにはあれこれ言いません。見ると口を出したくなるから、下にはいかない。私はこの家に住んで、ご飯も自分で作って、空いた時間にはこんなふうに木の細工物をこしらえて遊んでいます」



棚の上には素晴らしい木工品がいっぱいだ。

「若い頃は、木の根っこを見つけてきてはノコギリで引いて、豆腐を作る燃料にしてました。そのころの癖が抜けないんですね」

――豆腐屋さんは、35年前は谷根千に20軒ありましたが、今、谷中・桜木では藤屋さん1軒です。

「豆腐屋はどこも跡取りがいないんだよね。根津の越後屋さんもない。谷中銀座の武蔵屋の杉田さんもない。奥さんが後をやりたいと、うちにちょっと教わりに来たけど、女の人一人じゃ無理です。朝倉彫塑館の並びにあった石川屋さんもない。三崎坂近くの小松屋さんもない。夜店通りにも1軒あったでしょ、あの黒川さんもない。豆腐屋は朝早いと思われているから、嫁さんも来ないでしょう。

うちは娘が3人で、娘の婿が継ぎたいというから。もう彼も20年はやってるけどね。3年前に「俺、明日からやんないから」と言っておしまいです。あとは任せて、極力下には降りないようにしている」



――なんで藤屋さんだけ続いているんでしょう。お店の歴史を教えてください。

「うちは親父の高橋藤吉が新潟の小出の出身。小出の駅から一里ほど歩いたところです。板木という村がありましてね。越後湯沢のちょっと先です。私も小学校3年くらいで縁故疎開したので覚えていますが、雪の深いところでね。冬は2階から出入りしてる家もありました。

父は若い頃、何年か、冬に東京に出稼ぎに来たようです。新潟は米どころだし、最初、お米屋に勤めたようですが、どうも面白くない。豆腐屋なら、夏は冷奴、冬は湯豆腐、春、秋はいなり寿司用の油揚げなどが売れ、四季を通じて変化がある。それで、あちこちで修行して豆腐屋になったんです。修行したのは根津の越後屋の星さんという店です。

ここに店を開いたのが大正3年(1914)。あちこち引き売りして歩いてみて、このあたりはいいところだと。いい客がいる。その時、ちょうどこの角地が空いていたんですね。もとは人力車屋さんだったのが売りに出た。父としては何としても角地が欲しいと。やがて、お袋を郷里から迎えました」

――貧乏な頃の菊田一夫さんがご近所で、随分おからを一握り一銭で買ってゆかれたとか。作家の尾崎一雄さんは玄関を開けるとたらいで行水してらしたって前に伺いましたけど。

「そうですね。まあ、桜木町は門構えのご大家も多くて、女中さんが買いに来ましたね。昔は朝早くから味噌汁の具に、お鍋や目ザルを持って買いに来たり、けっこうお客さんが絶えなかったですよ。

やっぱり初代は頑張りますよね。初代が頑張って、二代目楽して、三代目は橋の下、とかよく言ったもんですよ。父は農家の次男だから骨惜しみしないでよく働いて、あちこち家作も持ちました」

――なぜ敬さんが継がれたんですか。

「私は7人きょうだいの上から6番目なんですよ。一番上は戦争に行って負傷して、手が曲がったので豆腐は作れなかった。次男はシベリアで抑留されて、遅く帰ってきた。その次に姉が1人おりまして、三男も初めから家を継ぐ気はなかった。私は勉強は嫌いなんですけど、体を動かしたり何か作るのが好きだったので。

疎開から帰ってきたら、忍ケ丘小学校の区域なんですが、戦争で焼けていたので、根岸小学校に行きました。それから上野中学、上野高校の定時制に入りましたが、稼業が忙しくて一学期でやめましたね。当時は朝2時、3時に起きてました」

――それじゃ朝でなくて、まだ夜じゃないですか。「豆腐屋は朝2時に起きて、豆腐をつくったら、それを天秤に担いで、朝売り、昼売り、夜売りと何十丁も売りました」と以前うかがったような。

「天秤は戦前、父の代の話で、私の頃は自転車でしたけど、百丁くらい売ったこともありましたね。数人いた使用人が引き売りに出るのを見て、私も面白そうに思い『行ってみようか』と父に話したんです。そしたら『道具を揃えろ』と言われましてね。ラッパなどを買いに行った。のちに小遣いも上げてもらってうれしかった。

相手はこんな子供が売るのかと思われたでしょうね。売り歩いていると学校の同級生に出くわすなんてこともあり、最初は少し恥ずかしかった。10年ラッパ吹いてましたよ。

でも、学校に行かないでも、路上でたくさん勉強できるもんですね。面白いんですよ、いろんなお客さんとのやりとりが。谷中真島町の高台のお屋敷に住んでる大会社の社長が謙虚で愛想のいい人だったり、かと思うと、根津の路地でラッパ吹くと、『豆腐屋うるせえぞ』なんて怒鳴られたり。世の中の勉強になりましたよね」



豆腐に限らず作る人によって味が変わる。買う人の気持ちになって作ってますよ


――戦後は食糧難で大変だったでしょう。

「戦時中はそんなわけで兄たちも兵隊で取られているし、休業してましたよ。戦後はおからですよ。山のようにおからが出て、父が困っていたので、ちょっとそのおからをくれと言って、上野動物園に持っていったんです。まあ、ウサギくらいは食べるだろうと思って。そしたら戦争直後、餌も手に入らない時で、向こうが喜びましてね。カバが一番よく食べるって。配合飼料のコロコロしたのだけじゃ食べられないんですよ。キリンもサイも、クマも食べたと思いますよ。

それで、動物園の入場券をたくさんいただいて、自慢げに親父に見せたんですね。そしたら『動物園にばかり行ってられない』って言うので、園の人に話したところ『そしたら一貫目いくらで良いか?』と言われてお金をいただくようになりました。以来60年、毎日、毎日おからを届けることになったんです。親父が喜んだので私もうれしかった。

いまはもうやめたんですけど。豆腐があまり売れない時代になって、動物園からはもっと持ってきてくれないと困るって言われたんだけど、おから作ってるわけじゃないから。その頃は大変でしたね」

――なんで売り上げが減ったんですか。

「もちろんスーパーが仇ですよ。奥さんは手間を省いて、スーパーで買いたいところでしょうが。そうなると、敵を味方にしなけりゃいけない。そこでスーパーにも豆腐を卸すことにしました。

その時のスーパーは仕入れの値段を叩いた。その近くにも豆腐屋があるんです。そこに迷惑かけちゃいけない。だから、仕入れ値を下げないで、うちの値段にマージン乗っけて高く売ってください、と言いました。それは昔の話ですよ。今は千駄木の『のむらや』さんに置いてもらっています」

――それじゃ千駄木で買えますね。桜木まで坂を上がって買いに行くことを考えたら、少し高くてもいいです。

「いや、うちは遠くから来る人が多いんです。昔は女の人ばかりだったのに、今は男のお客さんが多い。女の人より多いかも。のんべえの人が多いですね。

ある時、俳優の浜畑賢吉さんが見えました。「劇団四季」の創設者、浅利慶太に聞いてきたと。あの人は食い物にうるさくて、豆腐はどこどこがおいしいとか言ったらしいね。浅利慶太さん自身も見えましたよ。あの人は演出家で、テレビに出ないからわかんないよね。『失礼ですが、浅利さんですか』と伺って、娘が3人いるのでと頼んだら3枚、色紙を書いてくださって。浅利さんにはずいぶん応援していただきました」

――マスコミの取材も多いですか。

「今は断ってんだよね。若いもんだけじゃ人手が足りない。これ以上作れないし。出れば妬みみたいのもあるし。前はテレビ出たこともありましたが、普段のままで話してください、と言われました。なのに、これはバラエティ番組だということを忘れないようにとか、そのうえ台本を渡されてさ。そんなの覚えられないよ」

――豆腐は今も井戸水を使っているんですか。

「いえ、最近は保健所がやかましいからね。でも、正直言って、井戸水の豆腐と水道の豆腐の味を区別できる人はいないね。うちは豆腐を固めるのは、にがりを使っていますよ。スーパーの充填豆腐はいろいろな凝固剤で固めているけれど。

まあ、豆腐が売れなくなった理由は、スーパーができただけじゃないね。専業主婦がいなくなって、豆腐をちゃんと料理しないとかね。おかずの数が多くなって、冷奴だけで飯食う人なんかいないもの」

――樋口一葉の「にごりえ」に、主人公が豆腐1丁に香り高い紫蘇をのせてご飯を3杯食べるシーンがありますね。他に卸しているところもありますか。

「前は上野高校に定時制があって食堂におろしてました。今は谷中小学校の給食にも」

――子供達がちゃんとした豆腐を食べているのはうれしいですね。仕事でどんなことを大事にしていますか。

「買う人の気持ちになって作って売ってますよ。そしたらただになっちゃうか(笑)。要するにマトを絞ればいいんじゃないか。『手作りの正直な豆腐』、それを目指してきましたよ」

――敬さんも家の豆腐を召し上がりますか。

「もちろん、そのままが好きだね。冷奴に、おかかと、ひねしょうがをのせて、お醤油をかけて。でも、料理屋なんかじゃそれじゃお金取れないから、味付けちゃうんです。

50代の頃が一番働いたね。1日16時間働いた。そうすると後は8時間しかない。横になったらバタンキュー。疲れが布団に溶けていくような感じでね。今はご飯食べたら、風呂に入って、目方はかってね。身体使わないから、寝ても夜中に起きちゃうよ」

――ずっと一緒にやってこられた奥様はいつまでお元気でしたか。

「2年前までです。うちに来て苦労したね。会社で秘書の仕事をやってたんですよ。豆腐屋なんかに嫁に来るのは随分、反対されたらしいね。本もよく読むし、お習字もうまかった。お茶の免状も、お華の免状も持ってたけど、他人には絶対言わなかったね。豆腐屋の女房に徹しようと思ったんじゃないの。

店は女房が仕切るから、お客様にも頼られて、いろんな相談や話も聞いたけど、へえ、そうですか、と相槌は打つけど、他所ではその話を絶対にしなかった。寛永寺に妻のお墓があるから、毎週、お墓参りに行ってますよ」

そう広くないお店だが、絹や木綿豆腐のほか、がんも、厚揚げ、いろいろと並ぶ。買いに来た女性はどっさり買って、千円札を何枚か払っていった。たぶん遠くから見える常連みたいだ。



取材・文:森まゆみ

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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/


連載もの: 2019年08月21日更新

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