2019年02月27日更新

森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.5ー中華料理「BIKA(美華)」のご主人がポツリと話す谷中清水町の昔話

作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に"ずっとあるお店"にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回はニラそばなど上海料理で有名な「BIKA(美華)」へ。(編集部)

かつて谷根千を流れていた細流、藍染川は駒込染井に発し、文京区、台東区の間を流れ、上野の不忍池に注ぐ。すでに暗渠になって、川の姿はないが、川にまつわる仕事はまだ残っている。

割と広い夜店通りを抜けると、へび道というくねくねした道も川の跡で、この景色が今は何やら人気らしいが、その先また根津に入ると、道幅は広くなり、また言問通りから先は狭くなる。

そこに「BIKA」という小ぶりだが、実においしい中国料理の店がある。さっぱりして、油こくない。また食べたいなあ、という味なのだ。

私はことにここのニラそばが好き。雑誌「谷根千」も長年置いてもらっていたけど、お店の由来は聞いたことがなかった。職人気質のご主人、モダンな感じのきれいな奥さんに、一度話を聞きたいと思っていた。



料理人で主人の小池一郎さん、最初の一言。
「僕はここの生まれです」

――え、ここ?

「そう、うちの父はここでタイル屋でした」

そういえば、私の生まれた動坂の家の3軒先にもタイル屋さんがあって、昔の家の流し台は綺麗な空色のタイルでできていた。あれ、綺麗なんだけど、目地にご飯粒とか引っかかってね。

「そうなんだよ。もともと群馬出身の親父がいつ頃、根津に出てきたのか。戦争に8年も取られて。満州の上から下まで行ったそうですよ。僕はオヤジが30歳の時の一人息子です」

――それは大変でしたねえ。戦争に長く行って、結婚が遅くなったという話はよく聞きます。じゃ、ここで子ども時代を過ごしたんですね。

「よく水の出る土地でしたね。伊勢湾台風の時、小学生でしたが、水が父の胸のところまで来たのを覚えている。みんな裸で歩いてました。今でも時々、家を壊すと地中から太い松杭が出ます」

――低湿地には、松杭でまず筏を組んで、その上に家を建てたんですね。

「学校は台東区ですから、大通りを渡ったところにある忍岡小学校です。それから恋愛をして、この人と一緒になって、中華の料理人になった」



ここで奥さんの菊子さんがちょっと口を挟む。

「うちは父が、信濃町の慶應病院の前で、『美華』という中国料理店をやってたんです。でも7人きょうだいの私としては「中華料理の仕事は本当に大変だ」と思ってました。みんなが楽しんでいるときに、仕事をしなくてはならない。休みの日にどこかに連れていってもらう約束をしていても、急なお客さんでダメになってしまったりもする。油も使うし、肉・魚介・野菜と多種多様の食材を揃えておかなければならないし。きょうだいも誰も継がなかった。

 ところがオイルショックの頃、主人の父が倒れて、タイル屋の商売もうまくいかなくなってしまって。それで、仲人だった香蘭というラーメン屋のご主人から、『ぶらぶらしていてもなんだから手伝うか?』と声をかけてもらったんです。
 それを知ったうちの父が『だったら、ちゃんと中華の修行をしたらどうだ』ということになり、中国飯店や樓外樓で修業を積むことになったんです」

――うわ、やっぱり上海料理のおいしいお店ばかり。

「中国飯店は、今は富麗華という2店舗目が有名ですね。僕たちも六本木あたりでデートしてたほうですが、あの街は夜じゅう遊ぶ街。だから、お店が終わると朝の4時。
 昭和40年代のことですから、調理場で鳥を締めたりしてましたよ。あれを見て、3カ月鶏肉が食べられなかった。正月なんか、初詣の客でお店はいっぱい。中華鍋に山盛りのチャーハンを作っても、5分で空になってしまったりして、もう山のように売れました。15年ほど修業をしてから、ここで店を始めました」

その時、菊子さんの父上が、信濃町の「美華」のガラスのドアをくれた。

「実は両開きなんで、あと1枚あるんですが、うちは間口が狭いんでね」

この赤いドアがそんな由緒のあるものとは知らなかった。そうすると、店内の螺鈿の衝立も?

「それもそうです」



今日はランチ、やっぱりニラそばをいただくことにした。同行者は、ザーサイそば、えびそば。相変わらずさっぱりしておいしい。

「鶏の頭と足のところだけでスープを取っているんです。あそこが一番だしが出る」とご主人。

ニラを細かく切った緑色と、その中に茶色の肉あんの色のコントラストも最高。また夜に来て、いろんな料理が食べたくなった。

「メニューにないものもこの人、作りますからね」と奥さん。

特に、いとこの畑で、珍しい中国野菜のタネを提供して植えてもらうと、とてもおいしいのだという。

「青梗菜とかね」

許可を得て、厨房を覗かせてもらう。さすがに腕っこきの仕事場は綺麗に片付き、必要な調味料がすぐさま使えるように並んでいる。



「火力の強さが大事、39センチ、120穴のある強力なガスバーナーです」という。これだから、中国料理は家でなくお店で食べるに限る。

「信濃町の美華には、まだ下積み時代の俳優、高橋英樹さんがよく見えていました。そんなこともあって、テレビ番組の企画で、高橋英樹さんが根津のBIKAに来てくださったこともありました」

今はと尋ねると、「根岸から三平師匠の息子さん、正蔵師匠がお母さんの海老名香葉子さんなんかと家族で見えますよ」とのこと。たしかに、根岸では知られすぎている正蔵師匠も、根津の横丁では静かな時が過ごせそう。

「このあたりは谷中清水町といって、漱石の小説なんかにも出てくる町ですが、理化学研究所の所長だった大河内さんの大きなお屋敷があって。その孫が女優の河内桃子さんですよね」

ああ、江戸時代には、大河内家は松平といって、例の「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱の屋敷があったんですよね。

「戦後の一時期、相川製紙のあたりに、宮城まり子さんが住んでましたよ」「人参湯ってあったでしょ。あのあたりに伴淳三郎と清川虹子さんもいたんじゃないかな」などと、仕事の手を開けたご主人は、町の昔話をポツリとお話ししてくれるのであった。家族と、大事なお客様と、行くのにいいお店だ。

取材・文:森まゆみ



当連載のバックナンバー

森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.1ー創業67年。町中華の「オトメ」はだれでもふつうに扱ってくれるー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.2ーモンデール元駐日米大使も通った根津のたいやき
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.3ー甘味処「芋甚」は根津にはなくてはならない、お守りみたいな店である
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.4ー若い二人が引き継いだ「BAR 天井桟敷の人々」には悲喜こもごもの物語がある

Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

連載もの: 2019年02月27日更新

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