2019年01月30日更新

森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.3ー甘味処「芋甚」は根津にはなくてはならない、お守りみたいな店である

作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に"ずっとあるお店"にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回は大正元年創業の甘味処「芋甚」さんにお邪魔しました。(編集部)

藍染大通りにあって、気楽に入れる甘味屋さん。私がこの店を知ったのはもう50年も前だ。たしか「銀花」という雑誌で見て、近くだからと訪ねたのだった。壁一面の大きな鏡、淡いシャーベットブルーの壁、天井に回っていた大きな扇風機。

「うちはその頃、"ミルクホール"的な存在の店だった。喫茶店なんて名前、なかったものね。他に尾張屋という屋号もあって、でも町の人はなぜか『いもじん』と呼ぶ」と4代目の博康さん。

それは初代が甚蔵さんだったからだ。当時は炭火を使って、神田多町のやっちゃ場(青物市場)で仕入れた芋を斜に切り、平鍋の上で焼いていた。庶民のおやつに、夜食に、欠かせなかった。焼き芋屋の甚蔵さんだったので「芋甚」。

「尾張屋というのは尾張出身だったからなんでしょ。私は初代の曾祖父のことは知りません。でも亡くなったときの葬式はこの道、人でいっぱいの大行列で、鳩を飛ばしたりしたようですよ」

――それは放し鳥といって、鳥の命を救って善行を積み、極楽に行っていただこうということですね。

「その後、2代目の和助が、大正12(1923)年の震災で大火事を見てから怖くなって、焼き芋屋からアイスクリーム屋に変えたの」

――でも、電気冷蔵庫がない時代に、どうやってアイスクリームを作ってたんだろうねえ。

「氷と塩で冷やしてたと思いますよ。その氷をどうやって作ってたのかまでは知らないけど。材料は昔とほとんど変わらず、脱脂粉乳、全粉乳、加糖・無糖の2種類の練乳。この4種類のミルクと砂糖を入れるだけ」



――それであのさっぱりと口当たりのよい味になるんですね。変なフレーバーついてないし、膨張剤とか保存剤とか、添加物もないものね。モナカアイス、コーンアイスの他に、アベックアイスが定番ですね。

「あれは戦後に進駐軍が来た頃につけたんでしょう。横文字解禁で」

――フランス映画を見て、アベックとかランデブーとか、流行ったんだよね。それも、今どき280円というのは安くない?

「この真鍮のアベックアイスの容れ物なんか、もう60年も使っているよ。その他に、僕が子供の頃はアイスキャンデーというのを作って、売ってた。家族総出でチョコレート、みかん、イチゴと何種類も、割り箸を刺して作るやつ。何しろ兄弟が9人いた。うちの父・市蔵が長男で3代目を継ぎ、次男、三男、みんな東京のあちこちでお店をやってました」



市蔵さんは他界されたが、長らく三角巾をかぶって立ち働いていたお母さんはお元気だとか。今は博康さん夫婦が中心だ。長女が手伝うが、この女性2人が優しくて明るい。今はアイスキャンデーはないが、夏はかき氷が人気だ。

「うちのは昔風のシンプルでふわふわな氷。イチゴやメロンのシロップも自家製です」

最近1000円を超えるかき氷を出す店もあるが、ここは300円台から。そして、あんみつは今も390円。

「あんこも黒蜜も自家製だし、あとの材料もうち用に特別に作ってもらってます。澤の屋さんに泊まる外国の人が見えると、説明が大変なんだ。寒天、求肥、あんこ、豆かん、みんな説明しにくいもんねえ。だいたい、外国で海藻食べる文化や習慣、ないでしょ」

――そうね、採れるけど、あれは畑の肥やしかな。

「それで、今手伝ってくれている長女が、英語のメニューを作ったんだ」

と見せていただいたが、これがなかなか芸術的な出来栄えである。



「『まあ、食べてみて』というしかないよね」

かき氷は9月まで、10月から3月まで、冬は昭和焼である。寒い時に、こんがり焼けた分厚い昭和焼は、焼き芋と同様、手を温める懐炉の役目も果たす。

「このあたり、印刷屋さん、工場も多くて、みんな3時のお茶受けに買いに来てくれた。僕の子供の頃はここの通りには、豆腐屋、魚屋、八百屋、肉屋、パン屋、床屋、貸本屋、なんでもあって、ここから出なくても暮らせたくらいなんだ」

他にもお汁粉や、海苔餅もある。

「土日はカップルが多いね。あとは女性同士、老夫婦、親子連れ、案外、男性一人でも来る人が多い。1日に2回いらっしゃる方もいますよ。下町ブームでドッと来たこともあったが、今は落ち着きましたね」

藍染大通りがこんなに道幅が広いのは、この一帯、渡辺銀行の渡辺家の土地で、渡辺銀行の坂上に本家の屋敷があり、そこまで馬車や車で行こうと門前を広くしたと聞いたことがある。その渡辺銀行は、昭和2(1927)年の恐慌で倒産。「あかじ坂」というのはもともと海産物問屋、明石屋治右衛門から名付けられたのだが、口の悪い町人は「赤字坂」と呼ぶようになった。と言っても、渡辺銀行支店は今の藍染大通りの角にあり、そこに貯蓄していた町人は大事な貯金がパァになったので、そのくらい言われてもしようがないかも。

根津って、谷底に人がひしめいているから、みんな隣近所に関心を持って、結構うるさい街じゃないですか、と水を向けると、「たしかに噂は千里を走る。でも住んでみると住みやすい街ですよ」と言う。

背の高い博康さんは、地元の根津小学校から第八中学校に進み、バレーボールの選手だった。

20年前に店を建て替え、自動ドアにした。
「昔の開放的な作りがいいという方もいますけど。冬は寒いし、トイレ貸してください、という方が多いので、建て替えたんです。お、ちょっと入りにくくなったな、と言われましたけど」

いえいえ、街角で相変わらず廉価な値段でアイスや昭和焼を売っているこの店は、根津にはなくてはならない、お守りみたいな店である。

取材・文:森まゆみ



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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。


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