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2019年01月21日更新
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.2ーモンデール元駐日米大使も通った根津のたいやきー
作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に"ずっとあるお店"にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回は「根津のたいやき」さんにお邪魔しました。(編集部)
不忍通りのビルの1階にそのたいやき屋がある。一時は長い行列ができたが、今また少し落ち着いて、いつも2、3人が順番を待っている。元は「柳屋」といった。地域雑誌『谷根千』が始まって以来、ずっと雑誌を置いてくれた店だ。
「もう、お袋の13回忌をやったくらいで。親父は来年。でも、いまだに『お母さん、元気?』なんて言われるんですよ」
――林ヒサさん、本当に、声のきれいな、おおらかなお母さんだったもんねえ。今でも耳にあのソプラノが響くわ。
「この店は1957(昭和32)年、人形町の人形町の柳屋で修行した親父・林章三が始めて、1977(昭和52)年に暖簾分けで独立。親父は足が悪かったでしょ」
――そう言われるとそうだった気がする。職人気質で黙々と仕事してらしたけど、話すと優しい人だったわよ。雑誌の配達に来ても、行列を待つ余裕がなくて、仕事の邪魔しちゃ悪いからとすぐに帰ったけど。そうすると、オヤジさんが「森さん、ひとつ持ってきなよ」なんて、たいやきをくれた。
ずっとご夫婦2人でやっていたのね。宣夫さんの子供の頃はどうでした?
「昭和50年頃かな、『およげ!たいやきくん』の歌が流行った時が大変だった。学校帰ってくると手伝わされてさ。子供にとっては貴重な遊ぶ時間を奪われた(笑)。そのあと10年くらいして、森さんたちが『谷根千』なんて始めるから、時ならぬ下町ブームになっちゃって……」
――そう元凶みたいに言わないでくださいよ。
「もっともその頃、僕はサラリーマンだったから関係ない。僕の代になってから、柳屋でなく、『根津のたいやき』という名前にしたの。親父からしか教わってないから、柳屋を名乗ることもないかなと」
――看板の「根津のたいやき」というロゴと、たいやきの絵がかわいい。
「あれは、デザイナーのお客さんが書いてくれたのをずっと使っているの」
――あんこがあまり甘くなくて食べやすいですね。小豆は北海道の使ってるんだ。このあたり、根津製餡という工場もあったわよね。藍染川沿いに。
「なんでも、人形町の柳屋さんの初代はそこで修行した人らしいよ。長野の更埴市の人でね、最初はあんこを売ってたんだ。あるとき、磯辺せんべいをお土産に買って帰って、それにあんこをはさんで食べたら、うまかった。それでパリッとした皮で甘いあんこをはさむことを思いついた。
うちの父もどこかの製餡所に勤めた後に、人形町に勤めたらしい。今は、餡もうちで作っているけどね」
宣夫さんは、たいやきの型を絶えずひっくり返しながら、質問に答えてくれる。ちょっと話に夢中になると「いけねえ、焦がしちゃった」と、ひとつ弾いた。
――店を開けるのは10時ですか。
「だけど、朝4時には起きて、かまどに火を入れているよ。前の日に洗っておいた小豆に火を入れて餡を煮るとか、仕込みがあるからね。売り切れたらおしまい。午後の2時ごろに終わることもある。夜は悪いけど9時前には寝ちゃう。次の朝があるから」
大きなボールいっぱいに作った小麦粉を溶いたものを、おたまですくって型に流す。流す量は意外に少ない。その上にあんこをたっぷりのせる。その上にまた小麦粉を流す。型を閉じてガス代に差し込む。パリパリの薄い皮にあんこがたっぷりが身上だ。
たいやきを型から取り出すとき、左手は軍手をつけているが、つけてない右手で焼きたてのたいやきを剥がしてケースに並べる。火傷しないの?
「本当に熱いところには触っていないからね」
はみ出して焦げたところをハサミで切り落として整え、白い紙袋に入れて客に渡すのは、奥さんの由華さん。宮城県の松島出身。「先代夫妻が亡くなってから来たから、前のこと知らないんですよ」と言う。焼き上がるスピードと、売れるスピードがちょうどいい。待たせないで、ちょうど熱々が売れていく。
「1個170円。1個や2個の人もいれば、50個、100個と買っていく方もいます」
宣夫さんは足で軽くリズムを取りながら体を左右に揺らす。
「若い人が、初代でもたいやき屋さんをしようと思ったら、どうしたらいいのかな」と尋ねてみたところーー
「若い方の起業ですか? 難しいですよね。例えば、週にたった40時間しか働かず、他人様の仕込んだものでやろうとするなら120%失敗します。
僕自身、大変でしたから。サラリーマンを辞めて後を継いだ時、こんなの簡単だろ、と思ったら1カ月で音をあげた。もう両手バリバリに痛かった。腰も肩も。適度に力を抜いて、無理なく体を動かす感覚をつかむのに、時間がかかりました。立ったままの商売だから、足も疲れないように重心を変えるの。遠赤外線で焼いているからね。夏は暑くて地獄だし、冬は開けっ放しだから寒いよ」
――そういえば、アメリカ大使館の偉い人が来てたよね。
「あ、モンデールさん。アメリカ駐日大使のね。本当の日本を知ろうと根津の下町を歩いて、たいやきに出会った。それから何度か買いに来てくれた。うちの両親も、大使館にお招き受けたこともあるんです。日本に来る前は、民主党のカーター政権の副大統領だったらしいね」
ちょうど三人の子供を連れた金髪のお父さんが買いに来た。
――たいやきとか、アメリカにはないもんね。珍しいでしょうね。
「たいやきは明治42(1909)年に、麻布十番に今もある『浪花屋』という店が始めたそうです。それまでは大判焼きとか、丸い形や楕円形だったんだけど、その店が鯛の形にした。庶民の口には魚の鯛なんか、なかなか口に入らない時代だからね。その時の流行りでツェッペリン焼きとかもあったらしいよ。僕はレッド・ツェッペリンのファンだけど、関係ないか」
――なるほど。1929(昭和4)年にツェッペリン号という気球船が日本上空を飛んだことがありましたね。いま、休みの日は何をされていますか。
「独りもん時代が長くて散々遊んだから、今は娘2人の世話とか(笑)。お子様連れてお買い物とか(笑)」
――最近変わったことはありますか。
「街はだんだん変わっていくもんでしょ。今年(2018年)は、あまり商売はよくないね。地震とか水害が立て続けに起こったし。小豆の値段は上がる傾向だし」
――今回の連載では、ずっと長く商売を続けているお店こそ大事にしようと思って。
「そんなのいいよ。僕たち家賃がないからやっていけるんだもん。高い家賃払って進出してきたお店を応援してあげてください」
このハニカミというか、ちょっと斜めなところが、根津の魅力なんだなあ。
宣夫さんは、広い不忍通りの反対側から手を振る人に、振り返した。これ、先代もやっていた仕草である。
取材・文:森まゆみ
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。
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